一生懸命になにかに取り組んでいる姿を見ると、応援したくなりますね。仕事や勉強、スポーツだけでなく、健康づくりや病気治しのために日常生活のなかでちょっとなにかを辛抱したり、ちょっとなにかをがんばってやってみたりするのも同じだと思います。
信用できない?
一昨年の春は、四月に学校が始まりませんでした。そのころ関わっていた学生たちには、「学校に行かなくても、一人でもできると証明するチャンスだよ」と伝えていました。学校で授業がなくても勉強できるし、部活動ができなくてもトレーニングできる。学校があるとき同様のペースで日々を過ごし、いつ再開してもいいように準備をしておくことが大切だと感じていました。実際には休校期間はさらに延期され、気持ちが折れそうにもなったでしょう。それでも続けることができた先には、自信につながったことと思います。
そのころを思い起こすと、子どもたちの学習の遅れを不安視する声が大きく、新学期を半年遅らせて秋から開始するような空気にもなりました。結局、休校期間は二カ月近くも続いたけれど、平常通りに戻りました。
新学期が九月になってしまうのか、その段階ではわかりません。そうなったらなったときに考えれば良いもの。一部の意見に振り回されて気が緩んでしまった人もいるでしょう。かといって、九月始まりを声高に叫んでいたコメンテーターが責任を取ってくれるものでもありません。そもそも休校期間が延びたからと子どもたちの学習の遅れを心配することが、子どもたちが一人では勉強できないと思い込み、子どもたちの自主性を信じていないようにも思えます。だからこそ、私は「一人でもできると証明するチャンス」と言い続けたわけです。
二年近く経って、本当に学習の遅れが出ているのか検証すらされていません。九月始まりに変更していたらこうなったであろうという予測すら提示されません。最近では話題に上ることすらありません。
昨年の春の一時期は、「東京五輪開催反対」一色でした。実際に開催されたことで感染が拡大したのか、検証されていません。先月からの北京冬季五輪に際しては、選手の派遣に反対する声を聞くこともありませんでした。感染者数だけ見れば、昨年よりもはるかに多いはずなのに、あまりにも違うムードに気持ち悪さを感じてしまいます。
他人の意見というのはそんなもの。検証されることもなければ責任も問われない。他人の勝手な意見に振り回されるなど、馬鹿らしいことです。
自分が信じて続けてきたことで培われるものが「自信」になります。自分の人生は他人に生きてもらうわけにはいきませんから、自分で考えて自分で動くしかないのです。
一息つく
禅の言葉に「欠気一息あるべし」とあります。静かなところで身を調えて、静かに一呼吸することの大切さを説いたものです。日常では「一息つく」ともいうように、ちょっと手を止めて冷静になって考えてみることでもあるし、物事を進めるうえで緩急をつけるとも考えられます。
周囲の声に惑わされそうになったら、一人になって考えてみる。気になることがあったら、自分なりに調べてみることも必要でしょう。どんなことでも知らないよりは知っておいて損はないもの。知識を拡げていく時期、拡げた知識を狭めつつ深めていく時期を持つようにしたいものです。
ハッと気づかせてもらうことがあって、そこから自分なりに考えて行動してみて、そのうちにこういうことかなとわかってくるものもあります。それが目覚めて悟ると書いて「覚悟」となるのでしょう。覚悟を定め、自分のことを自分が応援していたいものですね。