宮古島の城辺で生まれ育った砂川さん。東京と宮古島での営業マン経験を経て、2018年に株式会社ぬくmoriを起業しました。城辺でカフェを経営するほか、宮古島の魅力を伝えるオリジナル商品を販売しています。温もりあふれるカフェnuis(ニュイス)は、島内外から人が集まる交流の場。あくまでも自然体で、過疎化が進む故郷を活気づけようと活動する砂川さんに話を伺いました。
株式会社ぬくmori 代表
砂川 丈見(すなかわ たける)
沖縄県宮古島生まれ。大学進学を機に地元を離れ、卒業後は東京の不動産会社に勤務。あるとき、母校の中学校が過疎化で廃校になることにショックを受け、Uターンして地域に貢献しようと決意する。地元企業で健康食品の営業促進に携わった後、2018年に株式会社ぬくmoriを設立。 妻が料理人を務める「カフェnuis(ニュイス)」の経営や、コーヒーや化粧品などのオリジナル商品の開発・販売をおこなっている。
カフェnuis(ニュイス):https://nuku-mori.jp/
新聞配達の記憶が
故郷の原風景
——子ども時代の記憶にある城辺はどんな地域でしたか。
沖縄は昔から少年野球が盛んで、私も小学1年生から地元のチームに参加していました。城辺は宮古島の南東部にあり、周囲は見渡す限りサトウキビ畑。当時は城辺町で、2005年に市町村合併で宮古島市になるのですが、そのころからすでに過疎化が始まっていました。子どもの数が少ないので、野球チームのメンバーも小学1年生から6年生まで全員揃わないと試合に出られない。高学年の子は、低学年の子が機嫌を損ねて「やめる」などと言わないように、よく年下の子たちの面倒を見ていました。地域では、子どもから大人までみんな顔見知りなので、親や親戚以外の大人と関わることも多かったです。
小学5年生のときに、中学3年生の先輩から「新聞配達の仕事をおまえに譲る」と言われて、引き受けることにしました。当初は契約している家が12軒。毎朝、自転車で配達してまわるのですが、それぞれの場所が離れていたので、時間がかかっていたんです。配達する家の隣の家にも契約してもらえれば、配達するのも楽だしより多く配れて効率がいいなと気づいて。ライバルの新聞社が2社あり、彼らがまだ配達に来ないうちに、予備の分の新聞を渡すと乗り換えてくれる人も多くて、だんだん契約を取ることにのめり込んでいきました。結局、中学生になって辞めるまでに40軒まで増えて、小学生にしては大きな金額を稼いでいました。がんばれば収入が増える喜びを知って、今思えば、あれが営業マンとしてのデビューだったのかな、なんて。それから、新聞配達をすると、この人はこんな家に住んでいるんだとか、集金するときに各家庭の経済事情などもわかって、子どもながらに地域のリアルな状況を知るんです。そのころに、地域の方たちにいっぱい可愛がってもらって、愛着を持ったことが、今の私の原点になっているのだと思います。
——将来はどう考えていましたか。
田舎によくあることですが、周囲を見渡せば、家族や親戚はみんな公務員か農家という環境でした。だから漠然と、私も公務員になるだろうと思っていました。沖縄の大学を出て、数学の教員になれたらいいなと。でも、高校のときに通っていた塾の先生に出会ったことで、将来への考え方が大きく変わったんです。その先生は宮古島出身で、県外の美大を出て広告代理店に勤めた後に、戻ってきて塾を開業していました。そして、授業のたびに、私に「本当に公務員になりたいと思ってる?」「なったとして、なにをやりたいの?」などと、自分の本心と向き合わざるを得ないようなことをたくさん聞いてくるんです。先生とのそんな問答を繰り返すうちに、「やっぱり誰も知らないところでチャレンジしてみたいな」と思うようになり、関東の大学に進学して、ビジネスを学ぶことにしました。塾では、東京から短期アルバイトとして来ていた先生二人との出会いもあって、一人は中卒でアメリカ横断経験のあるフリーター、もう一人は東大の学生。地元では友人のグループ分けがはっきりしていて、違うタイプの人たちと付き合うことはあまりなかったのですが、まったく背景の異なる二人が仲良くしているのを見て衝撃を受けました。都会の多様性ってすごいな、もっと広い世界を見てみたいなと思って。関東のなかでは千葉がいちばん沖縄に近い印象を持ったので、千葉で生活を始めました。
必然と想いが重なり
起業の道へ
——学生生活はどうでしたか。
今でもお付き合いのある、大切な方々との出会いがありました。なかでも、アルバイト先の居酒屋の店長さんにとてもよくしていただいたんです。当時、宮古島は本州ではあまり知られておらず、宮古島から出てきた学生というだけで珍しがられました。まだ航空券が高価だったので、長期休暇も帰省できずにアルバイトばかりしていると、お客さんから「いつも働いているね」とよく声をかけられました。そして親しくなると、「じゃあ、今度うちの会社を見に来たら」とか「保養所に遊びに行くから君も来る?」なんて誘われて、学生の身ながら、いろんな場所に連れて行っていただいたり、夕飯をご馳走になったりもして。そのころにすごくいい社会勉強をさせてもらいましたし、今思えば、お給料をいただくうえに、まかない付きで、人との出会いまで得られて、なんて恵まれていたんだろうと思います。当時知り合った方たちとは今もよい関係で、私が遊びに行くこともありますし、向こうから宮古島に遊びに来てくれることもあります。千葉は第二の故郷といえるほど、大好きですね。
——就職先はどのように決めたのですか。
学生のときは賃貸の部屋に住んでいたのですが、忙しくて寝るために帰るだけだったので、家賃を払うのがもったいないなと薄々感じていて。早いうちに自分の家を持ちたいと考えていたんです。そこでまず業界を知ろうと思い、不動産会社を志望して入社しました。アルバイトのときは一杯400円のビールなどを売っていたのに、家は一軒4千万円とかの世界なので、最初はその金額の大きさに萎縮していました。でも1、2ヶ月すると慣れてきて、最初に契約を取れてからはどんどん仕事が面白くなっていきました。家を売るって、各家庭の事情が垣間見えてすごく生々しいというか、どのケースにも家族のドラマがあるんです。不動産の仕事には、お客様と一緒に人生の大きな目標を達成しているような喜びがありました。最初に家を購入していただいた方も含めて、今もそのころのお客様と交流があります。そして入社3年目に、かねてから計画していたマイホームを千葉に建てました。
——マイホームを購入されたのですね。それから、なぜ宮古島にUターンしようと思ったのですか。
それまでに、いろんな伏線があったのですが、ひとつは、同業の先輩たちから、営業マンは45歳ぐらいが限界だから、次の道を考えておいたほうがいいと常々言われていたことです。私としても、30代のうちに自分で事業を起こせたらと、漠然と考えていました。もうひとつは、次第にものづくりに関心が出てきたことです。不動産の場合、家を設計するのは建築士さんで、家を建てるのは大工さん、資源を調達してくるのは別の担当者です。営業職は、自分が売るものを生み出すことに直接的に関わっていないことを、もどかしく感じていて。いつか自分で商品の開発から製造、販売までを一貫して手がけたいと思うようになりました。そんなとき、宮古島特産の薬草を使った健康食品などを製造する株式会社うるばな宮古さんとご縁があり、転職したんです。一方、妻は、カフェを開くことが長年の夢で、飲食の仕事に携わっていました。でも飲食の仕事は一般的に激務です。自分たちでやるなら、妻の夢を無理なく実現できるかもしれない。そんな道を模索していたとき、母校の中学校が廃校になると知り、いっきに宮古島への想いがわいてきたんです。私が知っているコミュニティが残っているうちに、故郷の役に立ちたいと思い、宮古島に戻ることにしました。その後、2018年に起業すると同時に、祖父が所有していた建物を改装して「カフェnuis(ニュイス)」をオープンしたのです。過疎化が進むなかで、みなさんが気軽に立ち寄り、つながりあえる場所になってほしい。さらに、ここで私が新しいビジネスを展開することで、城辺になにかいい変化をもたらせたらいいなと考えています。城辺は市街地からは離れていて、のどかな景色とゆったり流れる時間が魅力なんですよ。
宮古島の人の
魅力を伝えたい
——子どものころと比べて、宮古島の変化をどう感じていますか。
観光地として知られて、観光客や移住者が増えたのは大きな違いです。私たちはハワイやバリ島が好きでたまに行くのですが、そこで気づいたのは、成功しているビジネスの多くは外国人などの住人でない人がオーナーであること。宮古島にも同じ構図があって、それはよい面もあるのですが、「自分たちにはどうせ無理だ」と大人が愚痴っている状況もあって、そこは変えたいと思っているんです。島の子どもたちがそれを聞いて、最初からあきらめてしまうのはよくないなと。地域の子どもたちには、小学校で講話をしたり、カフェでの職業体験に来てもらったりしています。私が10代で塾の先生に背中を押してもらったように、今度は私たちがその役割を担いたいですから。私があえて過疎地といわれる場所にカフェを開いたのも、ここでもやれることを体現したかったからです。現実は、最初は人が来なさすぎて困りましたけど(笑)。不動産時代によく「入り口が難しければ出口は楽だ」と聞かされていました。土地の仕入れで、売れにくい土地は簡単に安く仕入れられますが、みんなが求める土地を地主さんと交渉して勝ち取るのは大変。でもそれができれば簡単に売れます。今もそれを信条にしていて、立地が厳しくても工夫をすれば、出口は広がるはずだと思っています。
——カフェにはどんな方が集まるのでしょう。
ゆっくりお茶や食事をされる方、一人で仕事をされる方などさまざまです。最近は、宮古島で起業をめざしている20代、30代の方たちが「朝活」をしたり、異業種の方同士が交流したりと、ビジネスの情報交換の場にもなっています。見ていただくとわかるように、カフェの外に広がる景色は、畑とまばらな家だけ。人や車もあまり通らないので、ふっと力が抜ける時間を過ごしていただけるのではないでしょうか。観光客や移住者の方がリピートしてくださることも増えてきて嬉しいです。じつは最初のころ、地域の方がなかなか来てくれなくて悩んでいたんです。あるとき飲み会でそう話したら、「いや、普段は作業着だから入りにくいんだよ」と。「お弁当やテイクアウトがあったら喜んで行くよ」とのことだったので早速始めたところ、すぐに来ていただけるようになりました。宮古島の人たちは、新しいことをする人を積極的に応援するわけでもないけど、遠くから見守っていて、本当に困っていたら助けるという感じ。ほどよい距離がちょうどいいんです。
——砂川さんが思う、宮古島の魅力はどんなところでしょう。
やっぱり、人ですね。以前、沖縄には離島が50島ぐらいあると聞いて、これまでに30島巡ったことがあります。そのときに、宮古島の人はダントツで穏やかだなと感じました。それは次世代の子たちにも引き継がれていて、ずっと残したいなと思います。移住で来られて、最初は硬い印象だった方が、半年もするとゆるやかな表情に変わることも多くて。この環境がそうさせているのだなと内心とても嬉しいです。
——地域で花を植える活動を続けていると伺いました。
宮古島は昔からポイ捨てが多いんです。ゴミ拾いをするだけではほとんど効果がなかったので、歩道や街路樹の下に花を植えてはどうかと思いつきました。最初は一人でやっていたのですが、次第に手伝ってくれる仲間が増えて、明らかにゴミが減りました。最近は市から苗をいただけるようになり、近所でも庭をきれいに手入れし始める方が出てくるなど、少しずつ効果の広がりを感じています。
——今後やりたいことはありますか。
現在、コーヒーや石鹸など、普段の生活のなかで宮古島を身近に感じられるような商品をつくり販売しています。今後は商品の種類を増やして、さらに地元に還元できるようなものづくりをしていきたいです。カフェでは、美味しいものを提供することはもちろん、島内外の人と人が出会い、さまざまな可能性やシナジーが生まれる機会をつくりたい。城辺では、廃校した中学校の跡地に、2024年に大学が開校予定です。あらゆることが変化するなかで、今後ここでどんな新しいことが起きるか、私自身もとても楽しみです。