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特集

インタビュー取材しました。

信じて待つことで 新たな芽が出る
キーボーディスト 鈴木 潤 氏インタビュー

投稿日:

プレマルシェ京町家@京都三条にある蔵で定期的に演奏会をしてくださっている、キーボーディストの鈴木潤氏。聴いているとなんだか踊りたくなるような軽やかで弾むようなアレンジや弾き方が印象的です。実は、京都大学出身で東京で演奏活動をしておられ、震災後に京都に移住してこられたそうです。ミュージシャンになった経緯や、音楽のルーツ、主催しておられるワークショップ「音の砂場」について伺いました。

キーボーディスト
鈴木 潤(すずき じゅん)

ミュージシャン。鍵盤プレーヤー、作曲家。国内外のレゲエシンガーや他ジャンルのさまざまなアーティストをサポート。2010年ごろから自身のソロ活動や音頭バンド「サンポーヨシ」、校歌をアレンジする「校歌部」、ピアノ連弾「おっさん姉妹」などのユニークなバンド活動をおこなっている。子どもやお年寄りとの完全放置型音楽即興ワークショップの経験も長い。https://linktr.ee/suzukijun

ジャマイカ・アフリカの人たちとの
レゲエバンドでプロに

——京都との縁は大学からですか?

はい。生まれは埼玉です。ミュージシャンになると決めていましたが、父が一度は一般大学に進学すべきという考えで、国立なら地方でもよいと言われて、必死に勉強して入学。「芸術学」という学科があり、僕が目指す「音楽」をジャッジするのかもしれないと、怖いもの見たさで専攻しました。実際は守ってくれるものだとわかりましたが。高校卒業後すぐに音楽の道に飛び込めなかった自分を責めたりもしました。でも、作曲家の野村誠さんやアンビエントテクノの脇坂明史さんなど、今も一緒に楽しく音楽をしているミュージシャンの何人かは、大学時代に出会った人たちなので、結果的に京大に行って良かったなと思っています。

バブル後期の売り手市場の時代。たくさん就職情報誌が来ても一切読まず、東京に行って一人暮らしを始めました。バイトをしながら、たまに、ピアノの弾き語りで小さいライブハウスに出たりしていたんですが、ピアノは褒められるのに歌の評判が悪くて。そのうちキーボードでのサポートの依頼の仕事が増えて、自分でバンドを始めたりもしたので、徐々に歌を諦めた感じです。生活のためにいろいろなバイトをしました。原宿のジャズクラブ「キーストンコーナー」のアルバイトでは、演奏ばかり見てるので、お客さんから大声で呼ばれたりグラスを割ったり、よくクビにならなかったなと思います。20代後半にはアフリカ人ボーカルのレゲエバンドでもキーボードを弾いたりしていましたが、さすがに焦ってきて、手に職をつけるべく未経験可能のプログラマーのバイトに応募してプログラミングをしていたこともありましたが、30歳過ぎに転機が訪れます。ジャマイカ人・アフリカ人のレゲエバンドに誘われたんです。月に9万円ほど固定収入が入る。この機会を逃すとバイトを辞めるチャンスがない!と思って、家賃2万円の4畳半の風呂無しピアノ設置可能の部屋に引っ越してバイトをやめました。それで急に大きい顔をして「俺はプロだ。音楽だけで食べている」と言うようになったら誘われるようになって。そのバンドで仕事をしていましたが、そのうち日本のレゲエ界からも誘われるようになり、そこからずっと演奏活動をしてきました。

——最初はクラシックピアノを習っていたのでしょうか。

そうです。中学生からバンドを始めました。中学まで埼玉の学校で、高校から都内の男子校に通うことになったので、高校デビューすべく弱いくせに中ラン(※1)を着て行ったんです。そしたら初日に中学から上がってきた生徒に絡まれて、怖いかなと思ったら仲よくなれて、歌舞伎町にあったディスコに連れて行かれて(笑)。それがもう楽しくって、ディスコにハマっちゃったんです。女の子目当てではなく、バスタオルを持参して朝まで踊るという感じでした。当時のディスコはあらゆるジャンルの音楽が流れていて、ブラックミュージック、デビット・ボウイ、サンタナ、マイケル・ジャクソンもかかる。あまりに楽しすぎて、キーボードの出番が少ないヘヴィメタのバンドをやめて、自分でディスコバンドを組んだんです。演奏したのは、メン・アット・ワーク、デュラン・デュラン、当時ディスコで大ヒットしていたジャマイカのレゲエバンドのサード・ワールドなど。ダンスミュージックがすごく好きだったんですよね。

※1:学生服の着丈が標準より長く膝丈ぐらいまでのもの

盆踊りバンドで自分の
音のルーツを見つけた

——ピアノデュオ「おっさん姉妹」のルーツが見えてきた気がします。踊りたくなるようなアレンジですよね。

あ、それはうれしいです。

——本場ジャマイカの人たちと仕事するなかで国民性というかリズム感やノリなど苦労されたことはありますか?

ずっと、そこを探求しているのかもしれません。僕にとって、ある意味、生きるうえでのひとつのテーマみたいな感じかもしれません。苦労の側面もあるんだけれど、それが僕のやりたいことのひとつなんでしょうね。

——弾き語りはどんな曲ですか?

僕はギルバート・オサリバンや、ビリー・ジョエルが大好きで、そんなつもりでしたが「さだまさしみたい」と言われました。自分のイメージと実際の歌声が乖離してたんでしょうね。高校のときから作っている弾き語りの曲は100曲を超えていますが、最近までだれにも聞かせないまま死んでいくんだろうと思っていました。でも、京都のアウノウンパーラという店で、店主の岸本想太さんに勧められて弾き語りライブをしたんです。過去のあらゆるライブのなかで一番緊張して、目が泳ぎつつちょっと震えながらやるのを、みんなあたたかく見てくれて。弾き語りはまたどこかでやろうかなと思っています。この歳でも「大きくなったらなにになろうかな」と考えてます(笑)。

——ご自身を「成長途中」と謙虚に捉えておられるのですね。

途中だと思っています。僕より上手い人はいくらでもいる。音楽を続けている人から「もう完成した」なんて聞いたことがありません。「まだ◯◯になれない」とコンプレックスのようなものを持っている人は多いし、そういう人のほうが音楽をやめない気がします。もちろん葛藤もある。僕は黒人ではないし、レゲエはジャマイカ人には敵わないのではと思っている自分もいる。しかも、ジャマイカに行くと子どもからおじいさんまで、みんな同じ音楽で踊っている。それで、日本の音楽のルーツを辿ろうと三味線や尺八を習ってみたものの続かなくて。ミュージシャン仲間と、日本のグルーヴだと思うものを鳴らし続ける「音頭朝練」をしていたこともありました。

京都に越してきて、地元の盆踊りを復活させる活動をしていたスズキキヨシさんが盆踊りのバンドに誘ってくれたんです。最初に行ったとき、地域のおばあさんたちが振り付けを思い出しながら踊っていて、それだけを見ながら音頭取りの人の歌に、なんの知識もなくキーボードでなにかを弾かなきゃいけない場面がありました。すると、驚いたことになぜか弾ける。自分のなかからなにか出てくるんです。それまでやっていたレゲエも、ダンスミュージックも、弾いているときに、どこかなにかをコピーしている自分を俯瞰しているんですね。だけど、そのときにはゼロからなにかが出てくるんです。感動しました。やはり、自分にもルーツがあるんだと。でも同時に「じゃ、レゲエをやめて日本の音楽だけをやろう」とも思わない自分もいる。そんなとき、友人から聞いたのが「なにかにどうしてもなりたいんだけれどなれない、という間にしか芸術はない」という言葉です。それを聞いてから、なにかになり切れないことを、とても肯定的に認められるようになりました。ルーツはルーツで勉強しつつ、なにか自分と違うものになろうとしないと、新しいものが生まれない気がします。僕の好きなレゲエのボブ・マーリーも、元々すごくソウルが好きだったりして、みんなそうした葛藤を持ちながらやってきたんだと今は思っています。

——音楽活動のなかではどんな喜びがありますか?

演奏をしていてなにかが起きる瞬間がやっぱりありますね。だれか一人ではなく、その場のみんなになにかが起きる。それは、観客に起こることもあれば、バンド内で、バンド全体で起こることもあったりするので大きな喜びですね。でも、そこを目指したからといってそうなれるわけでもない。お祭りみたいなもので、なにが起こるかわからないんですが。

なにが起こるか
ドキドキを楽しんで待つ

——今後はどんな活動をしていきたいと思われますか? ワークショップなどもしておられますよね。

前出の作曲家の野村誠さんは、さまざまな活動をしていて、そのなかで老人ホームや障害者支援施設に行き、福祉のためではなく、そこにいる人と一緒に曲を作るという活動もしています。大学時代に彼がキャンパスで缶蹴りをしていて、僕も混ぜてもらったのがきっかけで知り合いました(笑)。彼は、ほかにも壊れた歩行器なんかでゲームを作ってキャンパスで遊んだりしていました。彼の作曲スタイルが、まさに、そんなふうにそこにあるものでゲームを作るようなところも多い感じなんです。大学卒業後、イギリスから帰国した野村さんが東京で子どもたちとワークショップをするのを手伝いに行ったことがあって。僕ならどんなことをしたいか考えてみたら、子どもたちが自由に音を出すワークショップをしてみたいなと。ジャマイカでのレゲエのように日本の音のルーツを考えたとき、和楽器って、日本の街中でだれかが演奏しているわけではなく、あまり暮らしのなかで親しむものではないですよね。そこで、まだ音楽を習ったりしていない子どもたちを部屋に入れて、ただ楽器だけをいっぱい出しておいたらどんなことが起こるんだろうかと。あるとき、思いついたらやってみたくてしょうがなくなったんです。そこで、幼稚園や保育園に行って、「園にある楽器を全部出させてください」とお願いしてみると、驚くほどみんなきれいにしまってあるんです。袋に入れて箱に入れて丁寧に片づけてあって使っていない。その理由の多くは、使い方がわからない、もしくは、楽器を壊してしまうからだと。それで、打楽器のスティックなんか壊しながら上手になっていくものだと説明したりしました。実際に楽器の部屋に子どもたちが入ってくると、先生がいきなり「これから鈴木先生が『自由な音楽』について教えてくださいます。こんにちは!」と子どもたちに挨拶させて、すぐに沈黙になった。これはダメだと思って、先生に1分おきに一人ずつ部屋に入れてもらうようにお願いしてみた。子どもたちは部屋に入ってくると「なに? ここ?」って聞くんだけど、僕は無視して楽器を触ってるんです。放っておくと、しばらくすると楽器を触り出すんですよ。これに「音の砂場」という名前をつけました。おもしろいことに先生たちが想像がつかないようなことが起きる。普段は先生の顔色を見て動いている元気な子が動けなくなったり、逆に、普段おとなしい子が自由だとわかるとめちゃくちゃ楽しそうに楽器で遊んだりする。こういう表現がいいかどうかはわかりませんが、ヒエラルキーとか言葉の縛りがない世界に行くと、人って変わるんだなと感じます。あるとき、小太鼓を叩いているうちに、怒りが出てきてしまった子がいたんです。穴が開くんじゃないかというほどすごい音で叩いていた。周りはみんな耳を塞いでいて、先生も止めに入ろうとするんですが、前もって「ケガだけ気をつけて」「でも大人は手を出さないで」と伝えています。ハラハラしていると、ほかの子たちがスティックを持って集まってきて、その子を超える勢いで叩き始めた。そうすると最初に叩いていた子が「もういいか」とだんだん治まってくる。そこにすごく感動しました。それからそういう子がいると、僕もその近くで負けないぐらいの音で叩くようにしてます。なにか怒りの花を一度咲かせてあげると萎む。一度は咲かせることが大事なんでしょうね。このワークショップは、今も好きでこれからも続けたいと思っています。

10年ほど前から、老人ホームや障害者支援施設からの依頼が増えてきました。でも、多くの施設ではスタッフの方が「はい。◯◯さん楽器持って!」と無理やり楽器を持たせたりする。スタッフが待てない。そういうときは、スタッフに我慢してていただく。すると、おばあさんが、少しずつ触り始めて、鹿おどしみたいな、ぽーんという味わい深い音を出してくれたりする。そうしてできるだけ待つほどに、最後、盛り上がるんです。途中でスタッフが介入すると、なんか嫌な感じで終わることになってしまう。先生やスタッフのなかには、きっとドキドキするのが苦手な人もいると思います。でも、「音の砂場」では「なに? この気まずい感じ!」というのを、ぜひ、楽しんでほしいです。

ほかにも「みんなで歌おう」という会をしています。10年ほど前に御池通りの地下街「ゼスト御池」を盛り上げようといろいろ試してみたところ、最終的にみんなが知っている歌を歌うことが一番盛り上がって。通りすがりでだれでも参加できる「御池合唱団」として、毎回150人ほどが参加して活動していました。ただいっしょに歌う。上手じゃなくていいし、厳しく教えたりもしない、僕も楽しくピアノを弾くので、という感じでやっていました。たとえば「しあわせなら手をたたこう」など最初はみんな恥ずかしそうな顔をする。でも、2番3番ともなると、もうみんなノリノリで手を叩いている。そういうのが好きです。おもしろいですよね。レゲエにもちょっと共通するものがある気がします。そんな「みんなで歌おう」の会を、プレマさんの「蔵」でもできたらいいなと思っています。

- 特集 - 2023年7月発刊 vol.190

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