教育が向上するというとき、おうおうにして「考えるちから」が重視されます。もっとひどい現実を直視するなら、「覚えること」が教育の中心になってしまい、考えることですら軽視されてしまうこともあるのですが、どちらにしても、一般的にいわれる教育は「頭脳の働きを向上させるもの」が大切にされていることは間違いないでしょう。
そのような問題提起をすると、それでなくても国際的には日本人の知的水準がおちているのだから、頭脳を強化するのはあたりまえだといわれるかもしれません。確かに、頭脳の処理能力は追い越されているのかもしれませんが、ストレスや孤独感、自殺や犯罪の増加など、もっと深刻なことが現代日本人には起きているというのが私の認識です。
さて、私は旅を趣味にしていますが、観光地をめぐることはほとんどありません。たとえば、大陸にいけば、けんかの前に立ち止まったり、高層ビルの乱立する場所から貧民街まで歩いてみたりします。インドにいけば、とくに目的もなく歩き回り、雑踏の中で続々と起こり続ける「ハプニング」を体験します。ヨーロッパでは、道の真ん中を歩いてみて車と自転車の動きを体験したり、新しい建物と歴史的な建物の配置の具合をいろいろな角度から眺めたりします。
このような私ですから、ものごとを正面から受け止めることはまずありません。当然のごとく、マスコミのいうことも信用していませんし、情報をとるならばあらゆる角度の情報を探してみます。セールスマンやコンサルタントがなにかを売り込んでくれば、彼の利益はどこから生じるのかということを、彼らの表情の変化からくみ取ります。買いものにいけば、あらゆる角度から眺め回すこともあれば、すこしうわついて衝動買いをしたりもします。
そんな私がラッキーだったのは、貧しかったこともあって学習塾には一切いかなかったことです。おそらく9割以上の同級生たちがいやだいやだといいながら塾に通っていたとき、私はアルバイトで過ごし、世間の裏側を見ようとしていました。たまたま進学クラスにいた私は、9割8分の同級生が進学したときに、社会にでることになりました。こんなダークホースの私だから、
「今を感じてたのしみつつ、次の手を打つ」ことには長けていると勝手に思っています。
教育の話でいえば、世界でもっとも学力テストの点数が高いとされるフィンランドに、日本の教育関係者が視察にいって、何も持って帰ることが出来なかったという話を聞きました。かの国は、よほど熱心に教育に取り組んでいるだろうと期待し、結果として彼らがみたものは、土日は休み、試験は少なく、教科書に頼らず、塾も存在しないやり方だったのです。なにより、しっかりさまざまなことを体験することを重視し、子どもたちの主体性を大切にしながら、数多くの選択肢を発見し、答えのないことにも時間をかけて根気よく向かいあう姿勢を養う「ゆとり教育」を目指して教師をさらに教育中だというのです。もちろん、彼らの母国語と表現能力も大切にします。いうまでもなく、フィンランド国民の幸福度は先進国でも有数の高さです。日本のゆとり教育の失敗は、それが本当のゆとり教育ではなく、管理の締め付けを強めながら、ゆとりを演出しようとした、なんちゃって「ゆとり教育」だったのです。その中途半端な試みの結果、本来の目的が達成されなかったと考えています。発展途上の国ならば、徹底的に詰め込み教育で学力を高めることは可能でしょう。しかし、すでにひとびとの物質的な欲求が薄れはじめ、向上心も希薄化がすすむ「成熟した」日本では、こころの闇がひろく、深くなっているわけですから、また詰め込めばもとに戻るというのは短絡的な発想ではないでしょうか。なにより、いま大切なのは「自分を実はしあわせだと気づき、発見できる力と柔軟なこころ」の育成ではないかと、今はアジアの食堂の片隅で感じています。少なくとも塾にも大学にいくことがなかった私は、この瞬間にとても深い幸福感に浸っているのですから。