私が20代だった頃、アジアの国々をたくさん歩きました。当時、経済的なレベルは決して高くなく、カンボジアなどは、まだポルポト派の残党が活動しているころでしたから、とにかく生きていくのに必死、という時代です。そんな旅でとても印象的だったのが、若者たちの強い向学心でした。教育を受けたくても受けられないという事情がある人がたくさんいる中で、彼らが口々に夢を語るのを聞きました。「教育を受けることができたらもっと幸せになれる、特に両親にらくをさせてあげることができるのに」という彼らの目が輝いていたことを鮮明に思い出します。今でも基礎教育を受けられない子どもたちは世界中にたくさんいるわけですが、おそらく、彼らに話を聞いても同じことを話してくれるのだと思います。そんな国々でもうひとつ、私が感じたのは、お年寄りがとても幸福そうだったことです。生きていくのが精一杯という人たちでも、幸せそうな笑みをたたえていることに、ある種の希望を感じました。年を重ねていくということは、ある種の諦め(私は「明らめ」という書き方が好きです)を称えた達観した印象もまた、まだ若かった私に生きる意味を教えてくれたのです。
日本人の幸福度
年をとったら幸福度が上がっていく……そう信じて生きてきた私にとって、最近の「老害」を特集している週刊誌の記事は衝撃的に映りました。確かに、記事が指摘するように病院や駅で若いスタッフを逃げ場なく追い詰めるように罵倒している高齢者を見かけることは珍しくありません。実際に統計を見ても若者の暴力を伴う犯罪は減少している一方で、高齢者による暴力事件が急増しているというのです。なぜ、この国では年齢を重ねても幸せを感じられないのかについて調べていますと、政府の統計調査でも「日本人の幸福度は高齢になっても上昇しない」という図を見つけました。
この調査でもアメリカや諸外国の調査と比較して、社会的、経済的、精神的などの軸からいろいろな考察が加えられています。その他、日本人の幸福度に関する調査や報告書は多数ありますが、日本における研究であまり触れられない要素に「宗教的な価値観」があるようです。政教分離を憲法で定めている日本のことですから、そこを配慮して、もしくはこの国で宗教や信仰という要素を論文にするのは受け入れられないということなのか、理由は定かではありませんが、半ばタブーのようになっているようなのです。私が若いときに感じた、老年者の幸福感に溢れた深い笑みの理由をもう一度確認するため、昨年は、ブータンの寺に行きました。そのお寺で見た光景と印象をブータンの若者に話しますと、彼はきっぱりこう言いました。「そうやって、自分の親や国民が、お寺で思う存分死ぬまでお祈りできるようにしてあげたいんだよ。それが若者の役割なんだ」。
死と畏敬の念
図のような比較傾向は、おそらく強い信仰がある国と、そうでない国を比較したときに同じようなカーブを描くのだろうと、私は推察しています。個人差は大いにありますが、とはいえ、看過できない違いです。死生観は、信仰と強い繋がりがあります。ただ、物理的な存在としての肉体が死んでいくだけと考えるのか、何か大きな力に動かされている魂がそこにあると考えるのかでは、当然老いて死んでいくということの意味合いが異なります。自らが日本で死ぬことを考えたとき、悩ましいことがたくさんあることも事実です。葬儀や遺産相続、難しくお金がかかる宗教者との関係など、簡単に死ねない要素が満載です。これらのストレスから解放されたいと、終活セミナーやエンディングノートは大流行の一方で、老いてなお生きているときに感じられる幸福が少ないというのは何か寂しくないでしょうか?私は特定の宗教はもっておらず、何かに勧誘したいからこの記事を書いているのではありません。もっとシンプルに、日常的に死を見つめ、また自らの価値観で何を大切にするかということを考えておくことをお勧めしたいのです。死を語ることが歓迎されないということも、またこの国の幸福度を高められない要素の一つかもしれません。死を考えることは、同時に命の可能性を開く魔法でもあるのです。
プレマ株式会社
代表取締役
中川信男
(なかがわ のぶお)
京都市生まれ。
文書で確認できる限り400年以上続く家系の長男。
20代は山や武道、インドや東南アジア諸国で修行。
3人の介護、5人の子育てを通じ東西の自然療法に親しむも、最新科学と医学の進化も否定せず、
太古の叡智と近現代の知見、技術革新のバランスの取れた融合を目指す。
1999年プレマ事務所設立、現プレマ株式会社代表取締役。
保守的に見えて新しいもの好きな「ずぶずぶの京都人」。