「目に見えないものの話をするもんじゃない」。鍼灸治療における「氣」の概念について話していたとき、近くにいた知人からたしなめられました。
少し経って再会したときにマスクを二枚重ねに着けておられたので、「ウイルス、見えてるんですか?」と尋ねたら、物凄い形相で睨まれてしまいました。
境目はあるか
目に見えるものと、見えないものとに境目はあるのでしょうか。私たちの肉眼ではウイルスは見えません。顕微鏡を使ったって見えない。電子顕微鏡が発明されたことでようやく見えるようになったのがウイルスなのです。つまり、この先、特殊なカメラのようなものが発明されることで「氣」だって見えるときがくるかもしれません。氣もウイルスも、肉眼ではともに見えないものなのに、捉え方が異なるのは不思議な気がします。
目に見えないからといっても、存在しないわけではありません。目には見えなくとも存在するものはあるはずです。
人の感情も、過去の大切な想い出も、目には見えなくても存在するもののひとつ。修学旅行の想い出のマグカップを見るだけで、学生時代のさまざまな想い出が蘇ってきます。表面に想い出がプリントされているわけではないのに、鮮明に思い出されることもあります。そのマグカップを渡してくれた友人とのことも思い出されます。それらはすべて心のなかにあるものなので、外からは見えません。もしもマグカップを割ってしまったとしても、それで想い出もなくなってしまうわけではないでしょう。見えるか見えないかだけで判断していては、大切な想い出も失いかねません。
学生時代、授業中に「行間を読め」と言われて、意味がわからず困ったことがありました。「行間を読む」とは、文章や言葉では直接表現されていない隠れた意味や意図を察して読み取ること。そもそも教科書をまだきちんと読んでいない。まず先に熟読する時間がほしかったのを憶えています。
行を読まずして行間を読めるはずがありません。同じように、見えるものを見ようとせずには、見えないものは見えてくるはずもありません。逆にいえば、見えないものを見ようとはしないがために、見えるはずのものを見過ごすことだってありそうです。
だからといって見えないものばかり大切にし過ぎて、現実社会で具体的に目に見える行動を疎かにするようでは、なにかを手にすることはないでしょう。
見えるものと、見えないもの、どちらも大切なのです。
気づきに出逢う
私の鍼療室に並ぶ鉢植えの植物たち。開業間もないころから十年以上育ち続けてくれているものもあります。そのいくつかが昨年辺りから、これまでなかったところから新芽を出すようになり、スクスクと枝葉を伸ばしています。それまでとはまったく姿の変わってしまったものもあります。それらを見ていて、目に見えるカタチは変わっても、目には見えない根っこは変わっていないのだと気づかされました。自分に置き換えてみて、目の前にいる人に楽になってほしい願いが根底にあれば、目に見えるテクニックを変えてみることもあるし、それを支える知識や技術は常に向上させて成長していけばいいのだと教えられたように思います。
禅の言葉に「掬水月在手」とあります。水を手で掬えば、月はそのなかにある。本当に大切なものというのは、すぐ側にあるということ。手のなかの水に月が浮かぶ姿に気づけるのは、あれこれ考えているより、静かな心や、無垢な気持ちでいられるときということでもあるでしょう。
頭で考え過ぎず、物事を決めつけてしまわず、本質的なことを見失わずにいたいものです。