私は今、ある勉強をしています。急にやりたいと思って学び始めた時には、すでに40代半ば。今からでも遅くはないと自分に言い聞かせていますが、元々の脳の処理能力が悪いのか、単なる老化なのか、昨日学んだことが翌日にはすっぽり抜けています。「この文字は昨日見たな」と思い出す程度で、何の役割をしているのか、どんな意味があるのかまでは思い出せません。さらに「新しい情報をインプットできたぞ!」と喜んでいると、過去に覚えた情報に上書きされ、その過去の記録がどこかに消えています。あぁ、情けないと頭を抱える日々。「仕事も家事もしつつ、勉強するのは1日数分しかないから仕方ないよね」と、言い訳なら簡単にできるのに。
そんななか、誰かを怒らせることは一人前のようで、私は言いたいことがあったら、遠慮せず伝えるタイプ。もちろんそれが仕事や生活のうえで必要な場合もあり、ときには悪者を作る場合もあります。一応、大人なので言葉を慎重に選んでいるつもりですが、ストレートに言ってしまったときは、振り返って反省と後悔が押し寄せることが多々あります。その人にもこれまでの人生があって、生き方があって、その時々の学びがあっての今だから、それを私が否定してよいはずはありません。そう頭では分かっていても、言われたら言い返してしまう、まるで子ども同士の喧嘩のときのように。
なぜそうなってしまったのかを考えると、自分という存在を相手に認めてもらえず、自分も相手を認めていないからではと最近、気づきました。理解できない部分があるからこそ、お互いを認めあうことは難しく、その事実に向き合いすぎると、自分が息苦しさを感じてしまうのです。それならそれで、自分自身を認めてあげれば簡単なのではないか? 相手は相手、自分は自分なのだから。
そんな私の最近の口癖は「私ってすごい!」「さすが私だわ」「こんなことできるの、私しかおらん」……など、口に出すのは恥ずかしいけれど、心にある自画自賛の言葉たち。自意識過剰と笑われてしまいそうだけど、仕事と家事をこなし、新たに目標も決めて趣味も楽しみ、それでいて健康でいる。特質した才能はないけれど、これって実はスゴイことではないか? そのうえでさらに完璧を求めてしまうと、また誰かを攻撃してしまいそうだから、そこは「ほどほど」の今が丁度いいのかもと。新たな学びの途中で覚えが悪くても、成長が鈍くても、学べる環境にあること、いろんなことにチャレンジしている私はすごいのではないかと、もっと自分を褒めて認めてあげようと思うようになりました。そこには「もう誰かを傷つけないように」という決意の気持ちもあるのかもしれません。
プロモーションセクション
山崎 美穂
(やまさき みほ)
商品の仕入れやキャンペーンなど担当しています。年1回はマラソン大会に出場しようと意気込んでいますが、厳しいトレーニングが嫌なので、そこは「なんちゃってアスリート」。いえ、本当は楽しく走ることが目標です♪