数年前、とりつかれるようにあらゆるものを発酵させて毎日観察していた。トマト、リンゴ、ブルーベリー、みかん、ラ・フランス、ぶどう、米、昆布、どんぐりなど。発酵していくその変化の過程を見ていると、微生物と対話をしている感覚になる。そのころ自宅と診療所は、ずらりと並んだガラス瓶で、小さな実験室のようになっていた。それを見た患者さんから「発酵と腐敗の違いはなに?」と質問をもらった。生体にとって喜ばしい微生物のバランスが上回ったときには発酵で、あまり増えすぎてほしくない微生物が上回ったときには腐敗というのが理解しやすい気がした。良い菌や悪い菌という区分けは、大事なものを取りこぼしそうな気がする。良いか悪いかではなく、どちらの存在も必要であるため、重要なのはバランスなのだろう。あるとき発酵がすすんだブルーベリーの瓶を、自宅から診療所まで歩いて運んだ。診療所に着いて瓶を置くと、しばらくしてから爆発音のような音が聞こえた。慌てて確認したところ、その瓶から勢いよく液体が溢れていた。おそらく極まりつつあった発酵熱が、歩いて運んだことでエネルギーを増幅させ、蓋を押し出して飛び出てしまったのであろう。
漢方では、口から入った食べ物が消化吸収されながら、最終的に大腸で強い発酵熱をもつと考えられている。したがって、良い便が出ることは強い発酵熱が生体に留まらずに済むこと。便秘や下痢、お腹が張る、便の回数が多くなるなどの症状は、大腸の発酵熱が過剰になっているとも捉えられる。発酵と発酵熱、腐敗は、まるで人間の身体の縮図である。小さな瓶の中の微生物たちが、そう教えてくれているようで夢中になって発酵を楽しんでいた。
待つことの重要性
そして、発酵という過程には醸成を待つという面があるのが興味深い。環境をととのえて、それぞれの持っているチカラが発揮しやすいように待つのである。植物でも、少し元気がないなぁというときに、回復するための手当てをあれこれしながら、待つという時間も当たり前に重要だ。しかし、こと人間の医療では、ととのえながら時間を丁寧にかけて待つということが、おろそかにされやすい気がするのだ。
医療の現場でいえば、交通事故などの外傷では、すみやかに最善の対処をおこない、自分の本来持っている治ろうとするチカラを発揮できるようにととのえてあげることが求められる。その一方で、慢性的な心身の不調は、すみやかに対処して病変を取り除くというよりも、その症状が出る必要がない心身の状態になれるように促していくということ。あらゆる可能性を探りながら、自分の持つ生きるチカラを発揮できるようにととのえること。ととのうために要するアプローチをしながら待つ時間は、その人の心身が、すでにどのくらい込み入った状態にあるのかによって大きな違いがある。「今まで気づかずに、ずいぶんと込み入ったからだやこころにしていたなぁ。ごめんよ、自分」。そんな気持ちを持つことが、一助になりはしないだろうか。
また、「ま、いいか」は、ふっと自分を楽にできる。物や人や事柄などへの執着を手放したときに、自分を楽にできる自分に、気づけるようだ。ただし、体調がいまいちすぐれない場合、「ま、いいか」は、案外できないものだ。気分がざわざわしたり、体調がすっきりしなかったりするときほど、違和感のある状態を、手っ取り早い方法でなんとかしようしてしまう。やる気や元気を出さねばと、自分に活を入れて、がんばってしまいやすい。そんなとき、静かに呼吸をととのえ、大自然のエネルギーが身体の隅々まで満ちていく感じ、自分をとりまく見えない澄んだ気を取り込む感覚が、私はなんだか好きだ。ゆっくりと自分を感じる。そんな時間を持ってみることは、自分を楽にすることにつながらないだろうか。