内科の研修のときに、網膜剥離を患っている患者さんがいた。もともと眼科医なので、手術するのが当然だと思っていた。しかし、その患者さんは手術の選択をしなかった。当時、その選択にとてもびっくりした。病気になると、症状の経過や治癒に向けたプロセスなど、予測できるあらゆる説明を受ける。そのうえで、どんな治療をするかを選ぶのは、やはり自分自身なのだと思った。大切なことを教えてもらったと、今でも時折思い返す。
以前、ある患者さんからこんな話を聞いたことがあった。「会社の産業医に、『困っていることはなんでも言ってください』と言われたので、『腰の痛みが困っていて』と言ったところ、すぐさま『気のせいでしょう』と返答された」そうだ。この「気のせい」という言葉は「異常なし」の意味で使われていると考えられる。医師が異常なしと言う真意は、今のところ手術や積極的な薬剤投与による対処が必要ないという意味合いだ。しかし、痛みや腫れ、かゆみなどの不快な症状があるということは、「今、身体や心が困っている状態にあるよ」という身体や心からのメッセージでもある。漢方では、症状は気の流れの不調でもあると捉える。だから、その産業医の「気のせい」という言葉の真意とはおそらく違うが、漢方的には気の影響でもあり、「気のせい」でもあるのだ。
また、産業医をしていると、診療所で患者さんを診ているときとは違う発見がある。あるとき、会社の定期健診で、糖尿病の疑いが濃厚な結果が出た方がいた。様子を見ていると、少し問題がありそうな状態だったので、より詳しく調べるために受診を勧めた。しかし、しばらくの間、病院での受診をしてもらえなかった。その人の心の内を想像してみると、受診をすることで、病気が真実味を帯びてくる怖さみたいなものがあったのかもしれない。医師は、患者が大事に至るリスクを最小限にするよう考える。しかし、その人にとっては、病かもしれないという薄気味悪さが、受診することを戸惑わせるのかもしれない。そんな不安や怖さにも、心を向けていけたらいいのだろう。今まで勤務してきた病院や診療所では、自ら望んで来院する患者さんを診察してきたので、受診までなかなか辿りつけない患者さんの思いを想像したことがなかった。産業医の現場では、実際に検査や診断、治療をすることはない。働く人が働く場で、身体や心の悲鳴が続かないようにできるだけ調整し、祈りのような気持ちで見守ることが多い。
また、こんな話を、作家、解剖学者である養老孟司さんがある対談でされていた。「医者もそうです。彼らは病院に患者が来ると、何か治療をしないといけないと思い込んでいます。仮に医者が患者に対し『放っておいたら治りますよ』と帰してしまったら、病院に一銭も入りませんし、患者も怒ってしまうかもしれません。やはり、医者は『余計な』治療をしたがるものです」と。今の医療現場の問題に斬り込んでいる話であるが、なかなか公には語られにくい。
一方、今の保険医療では、医師が患者にとって必要な助言や生活での養生などを丁寧に伝えることに、なかなか価値を見出しにくい仕組みになっている。それ故に、時間をかけて、その患者が抱えているであろう問題を話し合うことは、なかなか思うようにはできない。医師にとっても、患者にとっても、困りごとがなんであるのか、どんなことが少しでも紐解けると楽になるのかのヒントを探すことは、より良い状態になるためには欠かせないと思っている。そのような本当は大切な視点が医療で語られるには、医師に相当な熱意がないとできない仕組みになっていると感じている。情熱が失われないような仕組みが少しでも見出されていくことを、諦めないで模索していこうと思う。