看護師の田中とも江さんは、30年以上も前から身体拘束(抑制)の伴わない看護・介護を実践されています。前号(11月号)では、田中さんが「抑制(身体拘束)なき介護」のロールモデルとして有名な東京・八王子の上川病院に転職してからの日々を綴りました。理想の看護・介護の実現のために、一生をかけてきた田中さん。70歳を超えた今も仕事を続ける理由を探った、3号にわたる特集の最終回です。
看護師
田中 とも江(たなか ともえ)
東京都品川区の「社会福祉法人こうほうえん ケアホーム西大井こうほうえん 」施設長。日本ユマニチュード学会認定エグゼクティブインストラクター。愛知県の准看護学校を卒業後、東京での病院勤務を経て、30代で「東京高尾看護専門学校」へ。1984年から東京日野市の「上川病院」(現「医療法人社団 充会 多摩平の森の病院」)に勤務。総婦長を務めた1986年ごろより、「縛らない看護」を標榜して、1998年「抑制廃止福岡宣言」や、1999年「九州宣言」につながる大きなうねりに。趣味は仕事、たまに買い物。
まず当たり前の毎日を取り戻す。
介護に必要なのは暮らしの継続
――前号(11月号)の続きです。田中さんが総婦長まで務められた、東京・八王子の上川病院(現「医療法人社団 充会 多摩平の森の病院」)は、抑制(身体拘束)のない老人病院(当時の介護療養院)のモデルケースとして、有名になったと聞いています。
田中 上川病院では、1986年の半ばには、身体拘束のない介護を実現しました。前号でも申し上げたように、抑制なき介護の実現は、一進一退の繰り返しでしたが、それでも抑制を見つければ排除しつづけ、なんとか軌道にのせました。
時代も平成に入って、老人病院での身体拘束が、だんだんと社会問題になりつつありました。「抑制が当たり前のなか、そうではない介護を実践している病院がある」。私たちの取り組みに最初に注目したのが相談員(ソーシャルワーカー)でした。自分の親に対する病院の処置に満足がいっていないお子さんたちに、相談員の方々が上川病院を紹介してくださったのです。
また「身体拘束を許すまじ」という世の気運とともに、マスコミが私たちの病院を取り上げ、さらに注目を浴びるようになります。
私は上川病院を、マスコミに対して、完全に開かれた場としました。たとえ私が病院を休んでいるときでも、いつでも取材を受け付けたのです。
抑制のない介護を実践できている。常に病院の取材を受け入れるのは、そんな私の自信の表れであり、また身体拘束の問題点を炙り出したいという強い思いがありました。
抑制するかしないかという点に注目がいきがちですが、上川病院には、他の病院にはない介護のかたちがありました。老人病院には、治療よりも暮らしの継続を求めて入院する方が多くいます。その立場を考えて、あくまで生活の場の構築に努めたのです。
医療は最小限にとどめ、食事もおいしいものを、その方に合わせて提供した結果、寝たきりだった患者さんが、自分で排泄する元気を取り戻しました。もちろん、そのための支援を、私たち看護師、介護士がおこないます。現場の看護師や介護士は、患者さんの目が輝き始めるのを見て、認知症の人たちに本人が望まないことを強いるのがいかによくないか、その事実に気づかされます。
病院を生活の場とする方向に舵を切った途端に、看護師や介護士の態度が変化しました。患者さんが嫌がることをしてはいけない、話を聞かないといけない、騒いだからといって取り囲んで、怖がらせてはいけない。空気のようにさりげなく、看護師や介護士が、そっと患者さんのそばに寄り添うようになりました。
もし認知症の患者さんの状態が悪化するとすれば、それは自分が虐められていると強く怯えているからです。取り囲まれて、押さえつけられて、おまけに抑制までされれば、恐怖に慄くだけ。その怖さを跳ね除けようと、さらに興奮してしまいます。それはまったくの逆効果なのです。
私は婦長、総婦長と役職が上がっても、自宅に戻るのは3日に1回くらいというペースで、泊まり込みを続けました。ずっと病院にいたからこそ、部下の心境の変化も手に取るようにわかりました。病院を患者さんの生活の場にすると、看護師、介護士の仕事に必要な、患者さんを信じる力もグッと強くなるのです。
見る、話す、触れる、立つ。
ユマニチュードが拓く新たな道
――田中さんは、看護・介護の現場におけるコミュニケーション技法として、ユマニチュードに注目されておられます。
田中 「ユマニチュード」とは、フランス人体育教師だったイヴ・ジネストさんとロゼット・マレスコッティさんによって、1979年に考案された包括的コミュニケーション技法です。イヴさんは看護師の腰痛対策のために看護の現場に関わった際、働く人たちが患者さんをモノのように扱い、身体拘束までしてしまうさまを見て、「なぜ目の前の人と向き合わないのか」と疑問に思ったそうです。そもそも看護師は人々の健康を願う人なのに、なぜ本分をまっとうしないのかと憤りを覚え、泣いた日もあると聞いています。
――看護師が本分を忘れてしまうとしたら、理由はなんでしょう。
田中 私が20歳で入職した精神病院のように、患者さんの家族が面会に来ず、勤務するスタッフだけが毎日、顔を合わせる閉鎖的な環境では、社会の常識が通用しないからです。そのため、患者さんがおもらしやご飯をこぼす、病棟内を歩き回る、大声を出す、壁を叩くなどの行動をすると、看護師や介護士が身体拘束をしてしまう。給料の分だけ働けばいいという考えの人なら、効率を優先して、声もかけずに患者さんの身体を持ちあげる、モノのように扱ってしまいます。
どうせ言ってもわからないからと、患者さんに声をかけないのは、人扱いしていない、精神病に対する偏見をもって、差別しているのと同じです。
――田中さんは、上川病院を54歳で退職されます。その後はフリーランスとして、とくに排泄ケアに力を入れ、多くの介護施設で看護師、介護士の指導にあたっておられました。その後、現職の「社会福祉法人こうほうえん ケアホーム西大井こうほうえん」の施設長になられますが、その仕事のなかで、ユマニチュードの必要性を感じたと聞いています。
田中 65歳のときにユマニチュードを知って、学び直しました。研修を受けるようになり、イヴさんが来日したときには、会いに行きました。
ユマニチュードには、「あなたは大切な存在です」と伝えるための4つのポイントがあります。まず見る。水平に長く相手の瞳を捉えます。次に話す。低めのトーンで、ゆっくりと抑揚をつけると、伝わりやすいです。3番目は触れる。敏感ではない部分にそっと手を置くことで、親しみの感情が伝わります。最後に自身で立つ。1日を通して、20分立てることを目標とします。
またユマニチュードでは「第3の誕生」を提唱しています。第1の誕生は生物的な誕生を、第2の誕生はハイハイから立ち上がって、歩いて自立に向かうことを、第3の誕生では寝たきりの状態から、もう一度人間らしい営みを取り戻すことを目指します。
ユマニチュードでは、強制ケアはおこないません。しかし放置もしません。お相手の気持ちに寄り添いながら、近く水平に目を見つめて、「私はここにいます。安心してください」「わぁ、天気がいいので、散歩にご一緒させてくださいませんか」というふうにお誘いします。
見る、話す、触れる、立つは、人間として当たり前の行動を積み上げること。これは看護・介護の現場では大切なことなのです。
――(ユマニチュードについて、楽しそうに説明する田中さんを見て)10月号の冒頭で「なぜ田中さんは、古稀を迎えた今でも、看護・介護の第一線で働いておられるのですか?」と伺いましたが、その理由が、はっきりとわかったような気がします。またお年寄りと一緒にいるときの田中さんは、ずっとニコニコしていらっしゃいます。
田中 そうですね、看護・介護の現場で働くのが、今でもとにかく楽しくて仕方がないんです。
職場では、ずっと身体を動かしています。今日も入居者の方のお部屋にお邪魔して、一緒に片付けをしながら、お話をお聞きしました。また時間ができたので、館内の掃除にも手を動かしましたよ。
職場の常識に縛られていたら、
今の自分はありえなかった
――でも、施設長の田中さんが掃除やお部屋の片付けまでやらなくても、と個人的には思います。とくに館内の掃除は、他の方が担当してくださいますよね?
田中 たしかに私は施設長かもしれません。しかし、入居者の方々にとって、もっとも身近な存在でありたいのです。
たとえばコロナ禍で、今はご家族のお部屋への立ち入りが難しいです。だから私たち看護師、介護士がお邪魔して、お部屋の片付けをしながら、入居者の方と触れ合います。
またここで働く人、訪問される方にとって過ごしやすい場所になるよう、私も手が空けば、掃除を手伝うのです。
もちろん根がきれい好きで勤勉、というのもあります(笑)。でもきっと、20歳で入職した病院での後悔の気持ちが大きな理由だと思います。
廊下じゅうに物が置かれて、車椅子も通れない。臭いのこもった部屋で、黄ばんだシーツに、汚れた寝巻を着させられ、ずっとベッドに横になったままの患者さんがいました。「刑務所はいいよなぁ、刑期があるから。私はここから、ずっと出られない」。あの言葉が、もうずっと脳裏に残っています。その声色と、絶望が浮かんだような表情。あの虚無にあふれた空間は、とても病気を癒すような場所ではありません。
あのころの私は、ひと月のうち15日間が夜勤でした。ほぼ患者さんと同化して暮らしていました。当時の経営者を頂点とした病院のヒエラルキーでは、私はヒラの准看護師。たしかに立場は弱かった。でも仕事は楽しかったです。身体を動かして働くのが好きだったから、嫌だとか汚いとか、臭いとか思ったことは一度もなかったんです。
――社会的立場が弱いという意味で、患者さんと共鳴する部分があったということでしょうか。
田中 ある種の親和性があったのかもしれません。でも私にとって忌むべき存在は、仕事がいやだ、病院がいやだ、患者がいやだと愚痴って、自分に誇りが持てない同僚でした。
ただ当時の私は、職場の仲間を遠ざけながら、なんの疑問もなく患者さんを抑制していた時期がありました。あのまま、職場の常識に縛られて働いていたら、私は今の仕事を続けていなかったのかもしれません。
――その常識を越えたから、72歳の今も仕事に魅せられている、と。いつまで今の仕事を続けるのでしょう?
田中 一応は75歳と決めています。
――といいつつ、80歳までは現役のような気がします。
田中 いや、私、もう体がボロボロなんですよ(笑)。でも生きてきた証として、看護師の職務をまっとうできたと感じたら、潔くやめて、次の人生を楽しむつもりです。