カフェと人権
私たちの人権を保障する根本規範は憲法ですが、憲法の人権規定の根底にあるのは、「人間は生まれながらにして自由かつ平等である」という「自然権」の思想です。
この「自然権」は、17世紀頃から西洋で唱えられた思想であり、これに基づき制定・採択されたのが、アメリカ合衆国憲法(1788年)や、フランス人権宣言(1789年)でした。アメリカ合衆国憲法や、フランス人権宣言は、近代憲法の嚆矢として、歴史上重要な意味を持っているのです。
ところで、フランス人権宣言はフランス革命の初期に採択されたものですが、この革命の起源について、「カフェ」の存在を指摘する見解があるようです。自由に政治的・公共的な論議ができる場としてのカフェの存在が、革命をもたらす一要因だったというのです。そうだとすれば、現在私たちが享有する人権もまた、カフェの産物であると言えるのかもしれません。
カフェと人権の関係についてはさておくとしても、近代以降のヨーロッパにおいて、カフェが知や文学、芸術の源泉であったことはよく知られています。他方、現代日本のカフェや喫茶店の機能については議論の余地があるかもしれませんが、少なくとも、喫茶店やカフェは、現代日本においても、尽きせぬ魅力と可能性に満ちているように思います。特に私の住む京都には、情趣ある喫茶店が多数存在しています。
こうした京都の喫茶店を舞台に繰り広げられている密かな取組みを、ご紹介したいと思います。
ダンスと文章
私は最近、仲の良い数人のダンサーと、ときどき喫茶店に集まって、「喫茶文」という名の活動をしています。喫茶文は、喫茶店でコーヒーを飲みながら、各自が黙々と物語を創作し、時間がきたら創作を終え、創作された物語を皆で回し読みして感想を言い合うという取組みです。創作はパソコンではなく、手書きでおこなわれます。そのため、文章の内容だけでなく、文字もまた作品を構成する要素となります。
先日は、喫茶店ではなく、私が普段仕事をしている縁法律事務所を喫茶室「縁」と称して、喫茶文を開催してみました。まずは私がコーヒーを入れ、ウォーミング・アップのように皆で会話をした後、40分間それぞれが創作に没頭しました。
終了後、できあがった作品を回し読みしてみると、ダンサーらしい繊細な身体感覚が際立つ美しい作品があり、喫茶室縁での体験をフィクション化した技巧的な作品があり、虫らしき主人公が虫なりに哲学的な思索を巡らすコミカルな作品がありました。私自身は、高校生のころに「夢の収集」を始めた人物の追想を、言葉遊びを織り交ぜながら描いてみました。
文章は、作り手の感性や日常的思考の結晶である点で、ダンスと共通しています。また、即興で物を書く作業は、その時その場で生まれる発想に形を与える点で、即興のダンスと類似しています。こうした文章を書くという営みと舞台で踊るという営みの類縁性からすると、喫茶文は、「書くダンス」と言えるかもしれません。
創造と交流のための公共空間
同じ空間で等しくコーヒーを飲みながら物を書くという営みは、一見各自の個人的な活動のようではありますが、実は共同で取り組む創造行為のように感じられる営みです。また、創作した文章を回し読みするという作業は、互いに創造性を贈り合う行為であり、大切な交流の実践です。
こうして考えてみると、現代の日本においても、喫茶店は、創造と交流のためのかけがえのない公共空間と言えるのではないでしょうか。