きのくに子どもの村通信より 学校づくりのこぼれ話(10)自由学校のひろがり
学校法人きのくに子どもの村学園 〒911-0003 福井県勝山市北谷町河合5-3 |
人は来たり、人は去る。
人は去り、人は来たる。
学校とは、かくなる所ぞ。
ある年度末(7月)、キルクハニティの全校朝会でのジョン校長のことばである。だれかの詩の一節かもしれない。小さな貧しい学校で信念をつらぬき通したジョンには珍しい、淡々とした口調であった。その表情には、おだやかなほほ笑みが浮かんでいた。とてもいい顔であった。きっと彼は、「この学校へきてくれてありがとう」という気持ちを込めて、右のようにいったに違いない。自分の理想にしたがって学校をつくり、そこへ各地から人が来てくれる。ほんとうにありがたいことなのだ。
満足して去るか 不満だから去るか
この時、私はもう一つのことを学んだ。それは、学校の力は絶対ではないということだ。彫刻家が像を刻むのとは違うのだ。教師は思い通りに子どもを型にはめることはできない。気に入ったからといって、何時までも手元に置くこともできない。むしろ子どもとその親が学校を選ぶのだ。そしてどんなに学校に満足しても、時期が来れば巣立っていく。選んでくれた人がやってきて、十分に利用して、さらに旅立って行く。それが学校なのだ。子どもの人格形成と、その後の人生を左右しよう、などと思い上がってはいけない。
さまざまなな転出理由
表向きとホンネ
そうはいっても「時期」が来る前や、年度の途中で子どもが去るのは、やはり気持ちのいいものではない。昨年度はいつになく多くて、年度の途中が3名、年度末が4名であった。開校1年めに次ぐ数である。開校の年には人事をめぐるトラブルがあって10人あまりが去って行った。それ以後は、だいたい年に3名以内である。転出の理由はいくつかある。
?経済的な理由
これはわかりやすい。子どもも納得できるし、学校の方でも奨学資金などで対応が可能だ。
?教育観の違い
これも正直な理由だといえる。○○○を習いたい。外国の学校へ行 きたい。受験勉強をさせたいなど。「残念だけど仕方がないか」と私たちも思う。
?家庭の事情
これはいろいろある。まず引越し。残念だがやむをえない。次は両親 の不和、または夫婦関係の破綻。これは厄介だ。しばしば学校にも、そして子どもたちにも隠される。そしてまったく別の理由や学校への不満がついてくる。
?学校への不満
「いじめられるから」という理由も あった。確かに人間関係が上手ではない子はいる。しかし強い子も 弱い子も、時間をかけて付き合い方を学んでいく。あせらないで欲しい。中にはワンマンもいいとこなのに、家に帰ると「いじめられる。
暗黒の世界だ」と訴えた子もある。
そのほかに「十分に世話をしてくれない」「自然食を始めてくれない」「教師が頼りない」といった理由もある。意外に思われるだろうが、「学力がつかないから」というのは とても少ない。たいていは「多少の不安があっても、子どもが元気だから」と見ていてくださる。
?その他
学校との感情的な行き違い、ホームシック、病気、発達上の問題などがある。理由がわからないこともある。
子どもが学校をやめる理由は1つとは限らない。そしてしばしば表向きの理由の下に本当の理由がかくされている。あとで経済的な理由や、両親の問題だったとわかるのだ。
もちろん1人として喜んでやめていった子はいない。ほとんどが心の痛む去り方である。そういう子が便りをくれたり、行事のときに来てくれたりすると本当に嬉しい。
「学力が心配」は迷信または口実
「学力が低い」といってやめさせられた子もないわけではない。3年生で5年生用の問題のいくつかを解ける子である。この子の保護者は「学校の指導が不十分だからとお考えですか」という問いに、とうとう答えなかった。
今年の入学を祝う会で披露したのだが、文章題ばかりの「かず」の問題でくらべると、きのくにの子の成績は、公立の子に劣っていない。むしろ少しよい。かつやまの子の成績はずっとよい。時間数が少なく、宿題なし、試験なしの結果である。
教育の目的は何か
人格の総合的な発達である
私たちの教育目的は、教科書中心の学力ではない。子どもみずからが、広い意味の学習を通じて人格を形成するのを援助することだ。学力とは学習の結果として得られた力である。私たちの目指す学力の中身は、感情面の開放、たしかな自己意識と自己肯定感、創造的な思考の態度、情報収集力、自己主張、共に生きる喜びなどである。そしてどの子もこういう学力を確かに身に付けていく。