この数ヶ月、京都の各学校の児童・生徒さんたちとものづくりや販売に取り組むことが増えています。
自然食の流通業に携わってきた20年ほどの歴史のなかで、直近の1年半は自社でのジェラート製造に注力してきました。
京都の地場商店街に店があり、さらに東京にも出店したことで、地域から注目されています。
子どもたちと一緒に何かに取り組むというのはとても新鮮です。
子どもたちに「アイスクリームやさん」の話や現場体験は大人気で、店にやってくる彼ら、彼女らの目はキラキラ輝いています。
ときには製造体験、ときには販売体験、さらにチラシづくり、また地域振興からマーケティングまで、いろいろな課題が持ち込まれ、一緒に取り組みます。
さらに、私たちが自然食屋を土台にしていることもあって、食育的な話題や、SDGs※のような社会課題の解決に関するテーマ設定など、「たかがジェラート、されどジェラート」という広がりを見せ始めました。
今年はカカオ加工にも取り組みますので、この先とても面白いことが生まれてくるだろうと、おおいに期待しています。
大学生VS小学生
そんななかで、印象的な出来事がありました。
商店街と弊店をアピールしようと、京都のある大学から漫画の提案があったのですが、そのラフ案が、正直「何これ?」と言ってしまう印象のものでした。
かたや、販売体験に来ている小学生たちが書いたチラシを見ると、好印象なのです。
書かれている内容の事実関係はともかく、「私が大好きな何かを、地域の人に知ってほしい」という前向きな気持ちに溢れています。
大学生の漫画作品は、ウェブで見るような、「ジェラートの歴史」といった内容が書かれているだけで、何か大切なことを伝えたいという意図をまったく感じないのです。
「私たちのわくわくやときめき、ときに情熱、つまり当事者意識こそが、心ある人々を動かす」というのは私が日頃から社内で話していることですが、小学生のチラシにはそれがあり、大学生の作品にはそれを感じません。
最近の大学生が書く論文は、出所不明のウェブ記事の寄せ集めだという問題が指摘されているようですが、「はい、検索エンジンがこういうネタを教えてくれました」という調子のものには、むしろ嫌悪感すらあります。
原点に戻ると、小学生になった
そんな象徴的な出来事があるなか、私たちの会社で、ある公的認証にチャレンジしようという話が立ち上がりました。
しかし、私のなかには払拭できない違和感がありました。
その認証のためには、私たちの仕事がいかに持続可能であり、社会性があり、永続的な価値観に立脚しているかを書面にまとめ、有識者の前でプレゼンテーションをおこなう必要があります。
確かに私は、事業の最初からこれらのことを強く意識し、「世界がよりよい場所になるのなら」という大きな信念をもって、小さな歩みを進めてきました。
しかし、その認証のために改めて書いたり話したりするとなると、どうしても、どこか浮ついた感じが拭えないのです。
この違和感は何だろうかと考えながら、最近起きたことを思い出していました。
それは大切な人との永遠の離別であり、痛みや辛さを抱えたお客様との会話であり、何気ない日常を笑い合うスタッフとのやりとりです。
私たちは日々を生きるなかで、病苦や孤独、誰にも言えないコンプレックスと向き合うことを含め、自分の感情に四苦八苦しながら、なんとかやりくりしています。
私が自らの菓子製造に課したテーマはただ一つ、「心の薬を作る」という一念です。
それは菓子にとどまらず、私たちの会社が関与する製品・作品のすべてはそこに向かうべきだという抗えない情熱が沸き立ち、私は「誰がなんと言おうともこれをやる」と決めるに至りました。
安心・安全とか、世界がどうだとかの前に、私は、私の関与するものを口に入れて、体の一部にすることを決めた目の前の人に、痛い・辛い・悲しい・さみしい・やりきれない気持ちをすべて水に流す「何か」を作るために生まれてきたと確信しています。
店のミッションである「世界の誰もが、子どものような笑顔になれる場所」を名実ともに作る。
これさえ達成されるのなら、それ以上の何かを望むつもりはありません。
大人になって面倒くさいことはたくさん抱えましたが、結局やりたかったことは、小学生の子が路上の子犬や子猫に感じる気持ちと同じなのです。
そんな小学生のように、私には実に個人的かつ、近視眼的な世界しか見えていません。
年始を前に、そのことに気づきました。
そして、私はずっとそれで生きていくんだと決めました。
絶え間ない当事者意識だけを胸に、今年もがんばります。
※持続可能な開発目標。「Sustainable Development Goals」の略称