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中川信男の多事争論

「多事争論」とは……福沢諭吉の言葉。 多数に飲み込まれない少数意見の存在が、 自由に生きるための唯一の道であることを示す

プレマ株式会社 代表取締役
ジェラティエーレ

中川信男 (なかがわ のぶお)

京都市生まれ。
文書で確認できる限り400年以上続く家系の長男。
20代は山や武道、インドや東南アジア諸国で修行。
3人の介護、5人の子育てを通じ東西の自然療法に親しむも、最新科学と医学の進化も否定せず、太古の叡智と近現代の知見、技術革新のバランスの取れた融合を目指す。1999年プレマ事務所設立、現プレマ株式会社代表取締役。保守的に見えて新しいもの好きな「ずぶずぶの京都人」。

【Vol.100】川平俊男さんを偲ぶ

投稿日:

私もあまりに突然のことで、今も信じられない気持ちでいます。3年にわたり本紙連載で宮古島の魅力と抱えている課題、そしてそこに生きる人たちのチャレンジについて休みなくその歩みを伝えてくださった川平俊男さんが、2015年11月30日、天国に旅立たれました。脳内出血による急逝でした。まさか、このようなお知らせをここで、こんなに早くすることになろうとうは、かけらも考えたことがありませんでした。川平さんとの出会いがなければ、私が宮古島で何かをしようとすることも、また弊社の松本が島に移住し、農業をすることもなかったと思います。

私が川平さんとはじめてお会いし、宮古島の夢と希望について、時間を忘れて語り合ったのは2011年のことでした。当時はいつもお元気で、病気とは縁のない方だというイメージでした。薬など飲んだことがない、食事は1日に1回で充分、というのが彼の口癖でした。川平さんは寝たきりになっておられたお母様のことをとても大切にされ、話し合いはいつもお母様のベッドの横でした。2012年のある日、家族連れで島に滞在していたときのこと、川平さんの様子がおかしいという知らせを受けて、彼の自宅に飛んでいったことを思い出します。麻炭の湿布やヒーリングなどを繰り返しましたが、背中の痛みに悶絶する彼を楽にすることはできず、結局深夜に病院に担ぎこみました。そのときは痛み止めの投与でなんとか休んでもらうことができましたが、原因がよくわからず、もしかして私と同じ病気(頚椎症)かもと疑い、翌朝整形外科にお連れしました。やはり、予想通り進行した頚椎症でした。その後、ごまかしごまかし保存療法で生活する彼にお会いしましたが、痛みと主にお母様の介護を理由とする過労で時々気を失って倒れてしまうという話を聞き、強く手術をおすすめしました。しかし、手術をするためには10日程度、島の自宅を離れて那覇の病院に入院する必要があります。「母ちゃんをおいていくことはできないさー」と、自分のことはいつも後回しにされていたのです。高齢のお母様は何度も容体の急変で病院に運ばれ、そのたびに川平さんも疲弊されていたと聞きます。ご自身が畑に立つこともままならない中でも、本紙連載の原稿だけは必ず寄稿していただいていました。彼にとっては、たとえ病んでいても宮古島の現実と希望を文字にすることは、何にも代えがたい、とても大切なことだったのです。そして、そんなことを繰り返しているうちに、倒れた川平さんは再び起き上がることなく、帰らぬ人となられました。 川平さんのもう一つの口癖は、「アララガマ精神」でした。昔、琉球王朝は薩摩の支配下にあり、宮古諸島や八重山諸島の人々は人頭税という過酷な税に苦しんでいました。人頭税とは、人の収入や仕事の内容、年齢、男女に関係なく、とにかく 「一人あたりいくら」 と決められた金額を税金として支払わなくてはいけないという極めて非人間的な税制です。琉球王朝は薩摩藩から命じられる税を納めるために、先島諸島に厳しい徴税の矛先を向けました。その非人間的な支配は、1637年から廃藩置県後の1903年まで、実に226年に及びます。そうでなくとも、宮古諸島では珊瑚礁が隆起してできた地形ゆえに雨水がすべて地下に流れ込んでしまうため、度重なる干ばつと毎年のようにやってくる猛烈な台風に何度も何度も痛めつけられながら、その上に過酷な税を課されてきたのです。渇水がおきやすい状況は、現在の地下ダムが完成するまで続きます(地下ダムの完成は2000年)。

このような過酷な自然環境と過酷な社会のなかで、宮古の島々に生きる人たちは、「どんなに苦しくても、決して諦めない不屈の精神」をアララガマ精神と呼んで、自分たちを鼓舞し続けてきたのです。まだ沖縄がアメリカの支配地だった頃、優秀だった川平さんはパスポートを携えて地質学を学ぶために島根の大学に留学します。さらに南米への留学を考えていた頃、宮古島には大干ばつ(1971年)が襲いました。全てが干上がった、荒れた土地を見た彼は、那覇で稼ぎを得ながら島の家族を養います。その後、島に戻った彼は地質学の知識を生かして有機栽培をスタートしますが、のちにその限界を感じ、また新しい農のあり方を思考し始めました。そんな中で私たちとの出会いがあり、病がありながらも島の歴史と文化、そしてそれを発展させる宮古諸島のあり方についてメッセージを出し続けたのです。どれだけ壮大な夢を持ちつつも、お母様の介護を決して忘れることなく、そこを一番大切にされていた川平さんの姿は、「最も大切なことを、最も大切にする」という人類普遍の原則を体現されていた方であると思います。そしてまた、アララガマの精神をそのまま生きる方でもありました。

美しい自然が人を豊かにするこの島にも、国際情勢の変化に応じて陸上自衛隊の配備が決まりつつあります。従来は航空自衛隊のレーダー基地だけがありましたが、今回は宮古島市も市長が自衛隊配備の要請を行っているようで、ミサイル基地を整備する計画が進んでいます。原発も基地も、小さな地域を意見の対立で二分してしまう構図は何も変わっていません。原発事故後、川平さんに福島の高線量地域で野菜が不足していることを私から説明した際に「すぐに島の野菜を集めよう」と行動してくださったことを思い出します。戦後から本土復帰の厳しい時代を見据えてきた川平さんが最後に懸念していたことは、この島が、そして沖縄がまた戦場や前線となることでした。それぞれに思いがあることは承知していますが、一度失われた自然と安らぎを回復することはとても難しいのです。農薬や化学肥料が土地から排除されるのには多大な時間がかかるのと同じ摂理です。私たちは原発や基地の代わりとなる産業を創り出すにはあまりに小さく無力であることを知っています。しかし、何もしないよりは何かをしようとすることもまた、できることの一つです。川平さんがそうであったように、私たちは大事な原則を忘れないように歩みをすすめていくことをお約束して、川平さんへの鎮魂とさせていただきます。

一筋縄で頑固、そして底抜けのお人好しだった川平俊男さん、どうぞ安らかにお眠りください。私たちは、あなたの語っていたことを決して忘れませんから。


川平さんの歩み、弊社の宮古島プロジェクトは>>

- 中川信男の多事争論 - 2016年1月発刊 Vol.100

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