累計122万件出荷!自然食品・自然療法・エコロジー・らくなちゅらる提案サイト

中川信男の多事争論

「多事争論」とは……福沢諭吉の言葉。 多数に飲み込まれない少数意見の存在が、 自由に生きるための唯一の道であることを示す

プレマ株式会社 代表取締役
ジェラティエーレ

中川信男 (なかがわ のぶお)

京都市生まれ。
文書で確認できる限り400年以上続く家系の長男。
20代は山や武道、インドや東南アジア諸国で修行。
3人の介護、5人の子育てを通じ東西の自然療法に親しむも、最新科学と医学の進化も否定せず、太古の叡智と近現代の知見、技術革新のバランスの取れた融合を目指す。1999年プレマ事務所設立、現プレマ株式会社代表取締役。保守的に見えて新しいもの好きな「ずぶずぶの京都人」。

【Vol.93】「基準」という病

投稿日:

弊社では月初に集中して私を交えたミーティングを行っています。各チームやポジションに応じてさまざまな話し合いをし、または私の指示を伝える場所になっています。5月のミーティングでは、いくつかのチームから「○○についての基準があれば教えてください」という質問が相次いで出てきました。私たちは小さな会社ですから、お客様やお取引先の状況に応じてできるだけ臨機応変に対応することが大切だと信じていますから、ついついそのような質問が出ると私は不機嫌になります。基準がないところでどのような判断を下すのか、というのが個人の能力と可能性を示す場合すらあります。とはいえ、会社を組織として運営していくためには、明確な基準の設定が不可欠というのが経営の世界の半ば常識となっていますから、ほんとうはあらゆることに基準を設定し、マニュアル化する必要があるともいえます。そのことはわかっているのですが、お客様や作り手さんの事情はすべて違い、タイミングが違えば判断も変わってくることがあり、私は答えに窮してしまいました。「そんなに明確な基準があるようなことだったら、全部システム化できてしまうので、人間がやる必要はないよね」といいつつも、私もあちこちにでかけて留守がちなことを考えると、何らかのゆるかやなものを明確につたえることもまた、必要になってくるわけです。

「基準」とは何か

よく使われる言葉ですが、正確な意味を知らないと解釈もできないと思い、本稿に先立ち、基準という言葉について調べてみました。すると、私は実に無学で思慮が浅いことに気がつきました。「きじゅん」という音には、「基準」と「規準」があるのです! 知っているようで、思い出せませんでした。

基準…物事を比較・判断するよりどころとなる一定の標準。 「採点の-」 「-が甘い」 「-を満たす」

規準…コンパスと水準器。転じて,判断や行動の手本となる規範・規則。 〔同音語の「基準」は物事を比較・判断するときのよりどころとなる標準のことであるが,それに対して「規準」は手本として守るべき規範・規則のことをいう〕

出典:大辞林第3版

目から鱗とは、このことをいいます。私は興奮しました。私が忌み嫌っているのは『基準』だったのです。基準について論じようと思っていた私にとって、基準はまさに現代日本の病理です。日本では食糧の6分の1が誰の口に入ることもなく、廃棄物として処理されています。これは、「賞味期限」という基準が食品の安全とは特段の関係がないところで設定され、これを過ぎたら食べられないという印象を植え付けているのが元凶です。その陰で日本人の五感は退化し、もったいないという言葉も消え失せ、まだ食べられる食品破棄率世界一、面積あたり農薬使用量世界一、食品添加物添加世界一の国をつくりだしているのです。もちろん私たちは日本で営業している事業者ですから、これを無視するわけにいきませんので、早期に値引きを実施する、もしくは期限間近の食品はスタッフに持ち帰らせるなどして、社内食品廃棄率ゼロを目指しながら、できるだけ新しい品を届けるよう努力しています。とはいえ、年に1回から数回しか作られない貴重な品にもこの呪縛がかかり、大手からは基準をもとに断られてきたことは多々ありますし、1ヶ月後に届いた品が、前と同じ賞味期限日だったということでのご返品もよくあります。 健康についても同じです。ウエスト85でメタボとはお笑いぐさです。血圧も140/90㎜Hgから高血圧と信じてきましたが、諸説あり、結局よくわかりません。コレステロール値、うつ病の診断基準……いいだせばキリがありませんが、どれも平均的であることはいいことだという原則に基づきます。結局、基準をベースに専門家が、またはシステムがジャッジするのです。日本人の問題解決能力とホワイトカラー生産性を下げてきたのは、いまも偏差値をベースとする学力評価に起因します。天才はつねにシャープな特異性をもちます。なんとなく平均的であること、わかりやすいという名で思考力を奪うこと、これが基準の本質です。基準くそくらえで生きてきた私にとって、やはり『基準』は諸問題の元凶にしかみえないのです。

「規準」という可能性

これに対し、『規準』は平均値や統計に基づきません。いわば、相対評価のようなもので、どれだけ平均的であることから外れていたとしても、あるべき姿に近づくことを推奨します。スポーツは常に勝ち負けという「基準」をもとにしますが、本来の日本武術(スポーツ化してしまったものは含まない)は練習量やそれに向かう態度や姿勢、形の完成度や習熟度、力の抜け方、上位になれば生き方などで相対的に評価されます。私が愛してやまないのはこういった「あり方」のほうなのです。私にとって会社における全ての基準は「あなたが大切に思う人を、あなたが大切にできるようにお手伝いするように、やる」ということに尽きます。ここにはお客様、同僚、作り手の区別はなく、必要なのは相手を思いやる気持ちです。それが損なわれていたとき、いくら「基準」はこうなっているから、あなたはうまくやれていて、クリアしているね、とはとてもいえないわけです。逆にいえば、えこひいき、アンバランスのように見えることすらあり得て当然です。あの大震災のとき、平均的な配布を目指すことから膨大に集まったお金の再分配が大幅に遅延しました。それが想定された瞬間から、私は自らご縁のあるところに動く、ということを自らに貸したのです。不公平のまえに、目の前の誰かのほうが大切なことは、「基準」からはずれていても、私の内側の「規準」に適合していたのです。生きること、リスクを恐れず決断すること、すべては責任と感性によってなしえるものなのです。

- 中川信男の多事争論 - 2015年6月発刊 Vol.93

今月の記事

びんちょうたんコム

累計122万件出荷!自然食品、健康食品、スキンケア、エコロジー雑貨、健康雑貨などのほんもの商品を取りそろえております。

びんちょうたんコム 通販サイトへ