誉めることの依存性
治療者の立場からでは、正直にありのままを知らないとどうしようもないことがあります。何をしていて傷めたのか、いまは何をしていると痛いのか、それがわからないままでは治療の進めようもありません。中高生のスポーツ選手で親御さんが連れて来られているとき、これが難しいことがあります。
こちらがなにか質問をしても、親御さんの顔をチラチラ見たり、親御さんが答えようとしたり。やっとのことで本人が答えてくれているのに、親御さんが「あんた、そんなことしてるの?」と口を出してこられたり。こちらから「いまはこの子に尋ねているから黙っていて」とお願いすることさえあります。事実をありのままに伝えようとしてくれることに、良いも悪いもないはずなのに、親御さんの判断が入ってしまって事実がわからなくなってしまうのは避けたいところです。その子の体は、親の体ではありません。親がいるから本当のことが言えないようでは、自主性が育っているとは言い難い。大事な試合本番に自分で考えて動くことを求められるときに、ミスをしてしまうのも当然かも知れません。
日常の「誉める」「叱る」にしても、行き過ぎれば自主性を奪ってしまいます。そのことが良いかそうでないかよりも、「誉められるか」「叱られるか」だけで判断してしまう癖がついてしまいます。昨今の「誉める子育て」も、行為だけを誉めていては、「これをやっておけば誉めてもらえるから」と、親の顔色を窺うようになってしまいかねません。事実をありのままに語ってもらったうえで、それの良かった点と反省点、両方の側面から考えてもらう習慣をつけていくようにしたいものです。
言ったことはやる
幼少期や就学前のお子さんでは、まだ善悪の判断力が育ちきっていません。よく、子どもが散らかしてばかりで片づけないと親は怒るものですが、子どもにとっては、片づけることが善という判断ができかねるということです。
『嫌われる勇気』で有名になったアドラー心理学では「怒る」より「誉める」より、「勇気づけ」が大切といわれています。散らかした後は、片づける。このことも「きれいに広げられたね、じゃあきれいに元通りにもできるかな」と伝えてみることで、意外にも素直に片づけてくれるようになっていくようです。必要なのは、怒ることでも誉めることでもなく、導いてあげること。親が勝手に片づけてしまうこともあるようですが、これではいつまでも自主性は育ちませんね。
もうひとつ大切なこと、それは決してウソをつかない。「いつまでも遊んでいたらオモチャを取り上げますよ」と〝宣言〟する親御さんを見かけますが、実際に取り上げることは少ないのではないでしょうか。これも同様に、まだ善悪の判断が育っていない段階の子どもにとって、約束は守らなくていいものとしか映りません。「子は親の言う通りにはしない、親のする通りにする」と言われます。どんなことであれ有言実行を心掛けたいところです。
選り好みの条件
禅の言葉に「至道無難、唯嫌揀択(しどうぶなん、ただけんじゃくをきらう)」といって、悟りに至る道は難しいわけではない、ただ選り好みをしてこだわりすぎるのが良くない、という教えがあります。なにかをすることで誉める、あるいは叱る。その先には、なにかをしてくれるから好き、そうでなければ嫌いという条件付きの関係になっていき、条件に期待するようになっていきます。そして条件に沿わなかったからと叱る、嫌う。
子育てに条件は必要ありません。大切なのは、信頼。なにをしてもあなたを信じていますよと親が見守る心があってこそ、育まれるものがあります。