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特集

インタビュー取材しました。

向き合うことで 生まれくるもの 前編
就職ジャーナリスト 岡本武史氏

投稿日:

将来の夢を探しにくい日本で、就職情報誌はインターネットの
ない時代、仕事探しの羅針盤でした。そんな就職情報誌『B-ing』
『とらばーゆ』の関西版編集長を歴任し、現在、就職ジャーナ
リストとして活躍する岡本武史氏は、アマチュア時代の吉田拓郎
のバックにいたこともある元シンガーソングライター。その
ユニークな経歴と共に「疲れ」と「老い」について伺いました。

岡本 武史(おかもと たけし)
1950 年和歌山生。大学卒業後、建築会社の設計、広告代理店のコピーライターを経て、1976 年(株)リクルート入社。就職情報誌「ビーイング関西版」「とらばーゆ関西版」等の編集長を歴任。
1999 年独立。企業・業界団体・大学・高校に、各種セミナー、管理職研修、就職指導、採用・育成コンサルタントなど。マスコミ出演、新聞・雑誌コメント掲載多数。現在、岡本武史事務所代表、(株)バードランド取締役、パーソルキャリアコンサルティング専属ファシリテーター等。講演・研修実績4250 件以上。

 

 

ゼネコンでの設計の仕事を蹴り広島に戻り「音楽の道」へ

―大学ではなにを専攻しておられましたか?

岡本 建築です。美大に行きたかったのですが、教師だった父親に反対され、美術に一番近いのは製図ではないかという単純な理由で建築を勧められ、広島工業大学の建築科に入りました。21歳で卒業した後、大阪の大手ゼネコンに入社し設計をしていましたが、一年もしないうちに辞めました。どうしても音楽の道に進みたかったからです。

大学の建築科に在学中、いつも課題をこなすのに忙しくしていたのですが、3回生のある日、たまたま広島で一番の大通りを歩いているときに、知らない女の子が前から歩いてきました。そして、チケットを2枚出して「近くで今からコンサートがあるんですが、いっしょに行くはずだった友達が行けなくなったので行きませんか?」と誘われたのです。それが、当時から人気のあったアマチュア時代の吉田拓郎さんでした。そのころは、女性とあまり話したことがなく、かわし方もわからず断る理由もなかったのでついて行くことにしました。ところが行ってみるといたく感動しまして、好きなように歌を作って、好きなように歌って「こんなに好きなようにやっていける世界があるのか」と驚きました。それが音楽の道へのきっかけでした。音楽など一切やったこともなかったのですが、そこからギターを一生懸命弾き始めて、ちょうど面白くなってきたころに卒業、就職となってしまったので、どうしても身が入らなかったのです。その女の子とは、それ切りです。

―音楽は聞いておられましたか?

岡本 ビートルズは聞いていましたし影響は受けていましたが、フォークはあまり知りませんでした。当時は、今と違って、音楽をしている人間は不良なんていうイメージもありましたし、楽器も高かったんですね。それが、拓郎さんのコンサートで「こういう音楽もあるのか」とギターを始めて、すぐに簡単なコードだけで短い曲を作ったりし始めました。完全にオリジナルでした。当時はコピーが全盛期で、レコードを聞いてはコピーをして、それが上手か下手かという基準で音楽をしていた時代です。「岡本の作った歌なんて、だれが聞きたいねん」などとよく笑われました。でも、僕は原曲は本人の演奏を聞いてこそだと思いますし、コピーには魅力を感じませんでした。在学中に、吉田拓郎さんが率いるフォーク村のバックバンドのひとつで、ギターを弾かせてもらうようになりました。技術的には未熟でしたが、左利きなのでポール・マッカートニーと同じという見た目の面白さが買われたのかもしれません。

ゼネコン退職後に広島に戻って音楽を始めたころには、吉田拓郎さんは東京へ進出しておられました。その後、24歳まで約3年音楽活動をしました。当時、僕のバックにいたのは『初恋』で有名になった村下孝蔵でした。リクルートでも周囲から「嘘や!」と言われましたが事実です(笑)。コンサートは毎月1回。ローカルのラジオ番組のパーソナリティをしたり、いろいろなイベントに出演したりしていました。アルバイトなど掛け持ちしなくても、音楽だけで生活していけました。やはり高度成長期だったのでしょうね。

ショックを受けたできごとをその後の人生に活かして

―音楽を辞めたのはなぜですか?

岡本 オイルショックです。ぴたりと仕事がなくなりました。プロとしての覚悟から左利き用のギターをヤマハに特注し、分割で支払っていたのですが、最後の2万円がどうしても払えず、ずっと信頼していたラジオ局のプロデューサーに初めてお金を借りに行きました。ところが「岡本くんは、ちゃんとしてるから応援してきたのに、お金を借りるような人だったなんて」と即座に断られてしまった。かなりショックを受けました。こんな惨めな思いは絶対に嫌だ、二度とギターは握るまい、ちゃんと就職しよう!と決意。広島で最大手だった広告代理店に、コピーライターとして採用されました。

ある時、高級クラブのダイレクトメールの仕事をいただいたのですが、何度書いてもコピーが通らないということがありました。クライアントの専務の家に押しかけて、ずっと書いていると、夜中に見るに見かねた専務がコーヒーを持ってきてくれて「君は、何百回書いてもダメだ」と言われました。「才能がないんでしょうか」と聞くと「違う。君が貧乏人だからだ。2百円のビールを5千円や1万円で飲む人の気持ちが、君にはわからんだろう。今、君が知っている言葉をどれだけ連ねても書けない」と。ショックでしたね。借金を断られた経験と、この2つの経験は、その後の人生に大きな影響を与えました。今思うと、本当に人に恵まれていたのだろうと思います。

1年半ほど勤めた後、26歳で株式会社日本リクルートセンター※に転職しました。アルバイト採用でしたが、最初から直感でいい会社だと思いました。ローカルということもあり、当時は就職情報誌の求人広告だけではなく、学校広報の学生募集広告など掛け持ちで制作していました。少し話が逸れますが、当時の彼女の誕生日に、東京から社長だった江副さんの名前で彼女のところに花束が贈られてきたことがありました。しかも、メッセージ付きです。それまで会えない不満をぶつけられてきたのですが、感動した彼女はそれ以来、なにも言わなくなりましたね。またローカル版の表紙を考えていたとき、広島に来られていた江副さんがパッと見るなり「いいんじゃないの?」とおっしゃって驚いたこともあります。任せるのが上手なんですね。人って任せられると責任感が生まれますよね。さらにしっかりしたものを作ろうと思いました。支社だろうとアルバイトだろうと、すべての人を同じように大切に扱うという社風が当時からありました。表彰するにしても、社会人になるとなかなか褒められる機会がないからと、単に業績を伝えるだけではなく、できるだけその人のストーリーを伝えて褒めて、それをシェアしようとしていました。

1年半ほどで社員登用試験を受けました。面接で電通出身の専務の「1日が12時間になったらどうしますか?」という質問に「6時間対策委員会を作ります」と答え、「君は前向きな心配性だね。そういう人がリクルートに一人いてもいいんじゃないの」と言われ、採用になったのを覚えています(笑)。

社員になって約3年後、大阪に異動になりました。当時はルーム制で、3つのルームは大手の広告制作や編集をしていました。やはり予算の多い大手のものを作るほうが楽しいんですよね。そこに新たに「岡本ルーム」を作っていただき、遠くて安いクライアントばかり担当することになりました。しかも件数が多いのです。いろいろ揶揄されることもありましたが、一生懸命作っていると、営業から評価され、おかげで管理職になるときに推薦してもらえました。今思えば大変でした。自分のキャパシティを越えた仕事をしていたと思います。将来のことを考える余裕もなく、人に何を言われても気にしている余裕もありませんでしたね。

―「疲れ」の対策はありましたか?

岡本 リクルート出身の活躍しているライバルを思います。勝手にライバルだと思っているんですが、東京都初の民間人校長として中学校校長を務めたFさん、作家になったY君、ドラマの脚本家になったK君、住宅情報編集長から、萩漁業組合長になったN君など。リクルートの出身ではありませんが、映画監督のMさんはNHK在局当時、番組制作の取材に来たのですが、文章に関して頼りなくて、なりたい仕事を聞くと「映画監督」だと。そして、本当に映画監督になってしまった。そんな出会いを経てみんなのがんばりを見ていると、へこたれてなんかいられないと思いますね。

脳梗塞をきっかけに「走る」ことで体調管理

―「疲れ」とは向かい合わずに、吹き飛ばしているようなイメージですね。私が在籍していたころ、会社の地下の社員用レストランバー「シーガルハウス」でライブされたことがありましたよね?
岡本 あれもFさんがきっかけです。あるイベント後にFさんが「みなさん岡本さんが音楽やってたの知ってますか?」とバラして、そこにいたメンバーが企画してくれました。今となっては恥ずかしい思い出です(笑)。

疲れが吹き飛ぶのは、研修先などで「実は私、『B-ing』で転職したんですよ」などと言われることです。かなり前ですが、大手ビール会社の人事部長さんに「悩んで悩んで、なんども『B-ing』を読んで、転職して、今では役員です。ありがとうございました」などとおっしゃっていただいたことも。自分がした仕事が活かされ、誰かのお役に立てているということは、やはりうれしいですよね。ありがたいことです。

―大病のご経験はありますか?

岡本 60歳で脳梗塞になりました。今思うとやはり無理をしていたんでしょうね。頭痛がひどくてMRIを撮ってもらったら、認知機能に障害が出ていることがわかりました。それから健康に気をつけるようになりました。「走る」ことに決めたきっかけは、脳梗塞のときにもらった血圧を下げる薬が合わなかったこと。後に、その薬が問題になったようですが、僕も血圧が下がりすぎて、ふらふらすることがよくありました。医師には何度も伝えたのですが、とりあってもらえず2年ほどで薬を飲むのを止めました。病院に行くと毎回「体重は増えていませんか?」と聞かれるんですよね。確かに体重が増えると血圧が上がってしまうのでしょう。ということは体重を減らしたら血圧が下がるのではないか……という単純な理由で、一番早いのは走ることだ!と気づいたのです。もともと走るのは嫌いではなく、気持ちがスッキリしないときなどに、時々走っていました。本格的にジョギングを始めたときは、3~5キロくらいを30分程度で走っていました。ジョギングに飽きないようにいろいろ工夫もしました。例えば道端の花を携帯電話で撮って、季節の移り変わりを感じたり、その画像を友人にメールしたり。友人も返信に困って迷惑だったかもしれませんが(笑)。そのうちに体重が少しずつ減ってきて、「これはダイエットになるぞ」と、ジョギングそのものよりも、一週間でどれだけ減量できるかなどを目標に走り出しました。今では、約10キロを1時間あまりで走るのが日課になっています。人から見て走ってるように見えるスピードかどうかわかりませんが(笑)。走り始めると体重が減り、思った通り血圧も下がりました。当時の血圧は上200下100ぐらいでしたが、今は上130下80ぐらいです。現在、体重を60キロ以上に超えないようにしています。走り始めると、今度は、走らないと落ち着かなくなっています。

ほかには若いころから週1回ほど、テニスを続けてきましたが、先日も肋骨を折ってしまいました。しかもプレイ中ではなく、休憩中に。僕にしてみると、疲れと老いはセットです。疲れるから老いを感じるし、老いを感じるから疲れるのです(笑)。(続く)

- 特集 - 2019年2月発刊 vol.137

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