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インタビュー取材しました。

人と出会い 命を感じ 変化を生きる
陰陽ライフ株式会社 代表取締役 花井 良平 氏 インタビュー

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弊社オリジナルブランドのプレマシャンティ®の開発には、会社の枠を超えたさまざまな人が携わっています。その一人が、陰陽ライフ株式会社 代表取締役 花井良平氏です。花井氏は学生時代にマクロビオティック提唱者の桜沢如一先生の弟子である大森英桜先生に学んだ後、自然食品を扱うオーサワジャパン株式会社に入社、1998~2004年には代表取締役を務めました。花井氏がマクロビオティックを学び、自然食品業界に関わるなかで、今に至るまでにどんな動きや変化があったのかを伺いました。

 

陰陽ライフ株式会社
代表取締役
花井 良平(はない りょうへい)

1955年(昭和30年)愛知県豊橋市生まれ。学生時代からマクロビオティックを始める。昭和54年からオーサワジャパン、平成16年から日本CI協会、平成18年から海の精で勤務。その後、平成22年に独立して陰陽ライフ株式会社設立。マクロビオティック食品や調理器具を企画販売。 http://www.inyolife.com/

変わり者が多かったマクロビオティックの世界

――花井社長がマクロビオティックを知ったきっかけはなにでしたか。

花井 1973年(昭和48年)、高校3年生のときに、6歳上の兄が愛知県豊橋市の実家に玄米食を持ち込んだのが最初です。兄は学生運動からドロップアウトして、東京でマクロビオティックを実践しながらヒッピー生活を送っていました。その兄に母親が説得されて、白米を玄米に変えただけですが、食生活が変わりました。初めての玄米食はおいしくもまずくもないといった感じでしたが、当時、東京の大学受験を考えていたのに、兄から「お前は陰性だから北(陰性)に行かないほうがいい」と言われたことで、そのときはマクロビオティックの陰陽の見方に懐疑的な気持ちがありました。

――そこから、マクロビオティックを学び始めたのはなぜですか?

花井 マクロビオティックの勉強を始めたのは、大学進学のために上京して、大学2年生になったころで、ちょうど、マクロビオティック普及団体である日本CI協会が、小田急線の東北沢駅近くの4階建てのビルに移ったころでした。ビルの1階はオーサワジャパン株式会社、2階は講演会などができるホール、3階が料理教室で4階が日本CI協会の事務所になっていました。そこで、桜沢如一先生と共にマクロビオティックを提唱されていた桜沢里真先生の料理教室や、桜沢如一先生の弟子である大森英桜先生の正食医学講座が開催されて、人気を集めていたんです。兄の言葉に陰陽の見方に懐疑的な気持ちを抱いたことはありましたが、一方でなにか学びたいという気持ちもあり、大森先生の正食医学講座の一期生となりました。当時は二泊三日の講座で、初級(前期・後期)、中級(前期・後期)、上級(前期・後期)という全6回ほどの講座を、寝袋を持ち込んで泊まりながら受講しました。日本全国から参加者が集まっていて、マニアックな変わり者ばかりでしたね。自然食品店を開業されている方や、これから勉強して開業するという方、後に指導者になられた方もいました。そのころは、マクロビオティック関連の書籍の出版も多く、ちょっとしたブームになっていたんです。

――当時の自然食品業界はどのような感じだったのでしょうか? 自然食品の会社はいくつかあったのですか?

花井 1966年(昭和41年)に桜沢如一先生が亡くなった後、1968年(昭和43年)に、創健社、ムソー、オーサワジャパンと、自然食品の問屋が設立されました。桜沢先生がご存命のときは、マクロビオティックで商売をするという雰囲気がなかったんです。唯一、桜沢先生の同志であった小林類蔵氏が「自然食品センター本店」を始め、卸売業もしていました。「自然食」という言葉は、このときに作られました。「マクロビオティックでは『自然』も『不自然』もない。あえて『自然食』というのはおかしい」と反対も多かったのですが、小林類蔵という人はものすごく陽性な、活動的なエネルギーがある方で、反対をはねのけ、事業を成長させていきました。

私がマクロビオティックを学んだときは、創健社、ムソー、自然食品センター本店が大問屋でした。創健社が一番大きく年商120億円ほど、ムソーと自然食品センター本店が年商40億ほどだったと記憶しています。オーサワジャパンは年商3億円ほどで、当時は規模が小さかったですね。商品の品質レベルに関しては、どこも似た感じだったと思います。

自然食品業界の歩みとともに

――花井社長がオーサワジャパンに入社したきっかけはなんだったのですか?

花井 大学卒業後の1979年(昭和54年)、23歳のときにマクロビオティックや有機農業、自然海塩の普及と原発反対を訴えながら北海道から沖縄まで歩く「生存への行進」に参加したときに、日本CI協会のスタッフだった3歳下の女性と同じテントで歩いていて、途中で彼女の妊娠が発覚したことです。二人ともまだ若く、さんざん悩んだのですが、産むことを決意しました。それで急遽仕事を探すことになり、日本CI協会の講座に参加していたこと、彼女が日本CI協会のスタッフだったこともあって、縁のあるオーサワジャパンに面接をお願いしたところ、すんなり入社が決まりました。

入社翌年からは、商品開発や品質管理を担当するようになりました。当時の自然食品業界の品質レベルはそれほど厳しくなく、できるだけ合成添加物を使わないといった程度でした。しかし私は、大森先生の講座で動物性食品や白砂糖の害を学んでいましたので、動物性食品や白砂糖を一切使用せず、ほかが扱っていない良いものをそろえたいと、全国の生産者やメーカーを回りました。地方の自然食品店や生産者を訪ねると、そこからどんどんほかの方を紹介してもらえます。入社後初の出張が上司二人との東北出張だったのですが、車に寝袋と圧力鍋を積み、最初に岩手県の自然食品店を訪れ、そこから小麦粉屋や蕎麦粉屋などを紹介してもらって、13日間、転々としました。そうやって商品を開発するうちに、品質的に他社を大きく引き離すようになっていきました。商売を大きくしたいとか、良いものを広めたいというよりも、ただ良いものを扱いたいという想いが強かったです。自分たちがほしいものを扱いたかったともいえます。値段が高いものが多いので急激に売上が伸びるようなことはありませんでしたが、社員は自社の商品をよく買っていました。その売上はすごかったですね。また、動物性食品・白砂糖不使用を徹底することで、マクロビオティックを実践する方にとって信頼できるブランドになっていきました。そのころは、原材料表示の義務がない時代だったので、お客さんは売り手を信じて買うしかなかったんです。

――当時から今までに、自然食品業界はどのように変化していますか?

花井 桜沢里真先生がご存命の間は、里真先生を中心に、自然食業界に関わるいろいろな方との交流がありました。里真先生は100歳で亡くなられたのですが、亡くなられる少し前にお見舞いにいったときも、「頑張りなさいよ」と逆に励まされるほどで、最後までお元気でした。そういうカリスマ性のある方がいらっしゃったころは、自然食品業界の運動性が強かったと思います。

日本CI協会の母体となる団体が設立されたのが1945年(昭和20年)なのですが、戦前は、農薬や食品添加物、化学調味料は存在しておらず、普通に食べているものが自然食品でした。ところが第一次世界大戦で作られた火薬から化学肥料ができ、第二次世界大戦で使われた毒ガスから農薬ができ、その後さまざまな化学調味料も誕生しました。当時は今のような規制すらなく、昭和30~40年代には、公害などの問題が相次ぎました。そういった問題に対する運動が盛んになり、そういった運動のなかに自然食品もあったんです。

花井社長は関東各地でデモ販、マルシェやイベントへの出店を積極的に行っている。味と匂いが強烈な「玉の澁(柿渋)」などは、実際に試してもらうとその体感にファンになる人も多いという

――陰陽ライフ株式会社設立までにはどんな経緯があったのでしょうか?

花井 1998年(平成10年)にオーサワジャパンの代表取締役に就任して、2004~2006年は日本CI協会、2006~2010年は海の精株式会社に在籍しました。そのなかでもオーサワジャパンで商品開発を担当した期間が長く、一番好きな仕事でもありました。ただ、会社が大きくなると、数字を重視せざるを得なくなり、気に入っている商品でも売上が基準を満たさないと扱えなくなったりします。そういった経験から、誰にも邪魔されず、自分が好きな商品を開発して普及したいと思い、2010年(平成22年)にあえて一人会社として陰陽ライフ株式会社を設立しました。

陰陽ライフの商品選定ポイントは、おいしくて健康にプラスになることです。また、3・11大震災のときにレトルトの玄米雑炊が飛ぶように売れたことや、自身が体調不良になったときの経験から、非常時にも役立つ商品を扱いたいと痛感し、玄米雑炊の代わりに本葛粉を入れた「玄米葛粥」シリーズ3種を発売しました。

――プレマ株式会社、またプレマシャンティ®に関係するようになったきっかけはなんだったのでしょうか?

花井 1998年にオーサワジャパンの代表取締役に就任して、日本CI協会主催の自然食品店経営セミナーを始めたのですが、そのころに中川社長が起業され、毎回セミナーに参加されていました。そして、プレマ株式会社があっという間にオーサワジャパンの売上トップになり、私がオーサワジャパンを退職するまでの間、ずっと1位をキープされていたことを覚えています。これからはネットの時代だと認識させられました。

陰陽ライフを設立してからも、食品の展示会などで良い商品を見つけると、古巣のオーサワジャパンに情報を流していたのですが、オーサワジャパンの取り扱い基準が変わり、情報提供する面白さがなくなってしまっていました。そのことを中川社長にお話ししたところ、2013年(平成25年)春にお誘いを受け、プレマシャンティ®の商品開発に関わるようになりました。

――プレマシャンティ®開発のなかで、特に印象的な商品はありますか?

花井 2017年(平成29年)1月に大腿骨を骨折して3カ月入院したことがあり、そのときに無性に食べたくなったのが「エナジーバー」でした。退院間近に取り寄せて頂いたところ、身体が喜ぶおいしさでした。プレマシャンティに関しても、陰陽ライフと同じく、おいしくて健康にプラスになることをコンセプトとして商品開発に携わっています。

――有機食品や自然食品に日々関わるなかで、今後、この分野はどのように変化していくと予想されますか?

花井 この数年、有機食品が広まってきたことは喜ばしいことだと思います。ただ、有機JAS認証制度ができるまでは、有機農業にも自然食品のような、世の中を変えようというような運動性がありましたが、制度ができてからは大手企業も有機食品を扱うようになり、運動性がなくなってしまったと思います。今後は、自然食品と一般食品との垣根も取り払われ、無添加・無化学調味料、有機食品が一般にも広まり、従来の自然食業界は縮小するのではないかと考えています。

――最後に、花井社長のこれまでの活動のなかで、特に印象的だった出来事があればお教えください。

花井 マクロビオティックを学び、自然食品業界に関わるなかで、命の営みを間近に見るという体験を何度かさせていただきました。

ひとつは、学生時代、東京芸術大学で教授をされていた、発生学の研究者である三木成夫先生の研究室で、一カ月・二カ月・三カ月の胎児のホルマリン漬けを見せていただいたことです。まだ数センチしかない胎児が、きちんと人の形をしていて、すごく衝撃を受けました。

このとき三木先生を訪ねたのは、西荻窪の「ほびっと村」という場所で、三木先生の講演を担当することになったからです。ほびっと村では、三森礼子さんという方の「産婆の学校」を週一回開催していて、そのつながりで長兄の友達の出産に立ち会わせていただいたことも、印象的な出来事でした。そういった経験があり、結婚後、三人の子どもはすべて自宅での自然分娩で、自分で取り上げました。また、結婚後に住んでいた借家では、庭を耕し野菜を育てていたのですが、このことも印象に残っています。

マクロビオティックや有機農業、自然食品は健康な精神や身体を作るものです。命の営みを間近に体験すると、その意義をより一層感じます。

- 特集 - 2020年2月発刊 vol.149

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