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インタビュー取材しました。

縛られているのは、介護する側の常識
看護師 社会福祉法人こうほうえんケアホーム西大井こうほうえん 施設長 田中 とも江氏 インタビュー(1)

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医療・介護の現場で使われる「抑制」は弱い立場の人の手足を縛り、自由を奪う行為です。この理不尽さに「NO!」と言い続けるのが、看護師の田中とも江さん。しかし「若いころは抑制することに問題意識すらなかった」とも話します。そんな田中さんが介護現場の矛盾に気づき、立ち上がったきっかけは? 私たちの働き方や今後の介護についてなど。彼女の言葉には、人生のヒントが詰まっています。

看護師
田中 とも江(たなか ともえ)

東京都品川区の「社会福祉法人こうほうえん ケアホーム西大井こうほうえん 」施設長。日本ユマニチュード学会認定エグゼクティブインストラクター。愛知県の准看護学校を卒業後、東京での病院勤務を経て、30代で「東京高尾看護専門学校」へ。1984年から東京日野市の「上川病院」(現「医療法人社団 充会 多摩平の森の病院」)に勤務。総婦長を務めた1986年ごろより、「縛らない看護」を標榜して、1998年「抑制廃止福岡宣言」や、1999年「九州宣言」につながる大きなうねりに。趣味は仕事、たまに買い物。

過酷さも、厳しさも当たり前、仕事を覚えることが楽しかった

――まず介護の具体的な話題に入る前に、田中さんは現在71歳。今でもケアホームの施設長として、第一線で働いておられます。同世代では現役引退の方がほとんどのなか、まだ介護の現場に身を置かれている。そのエネルギーは、どこから来るのでしょう?

田中 15歳の春に、集団就職で地元の福岡を離れてから、ずっと仕事中心の生活を送ってきました。看護師を経て、今は介護施設で働いていますが、仕事が嫌だと思ったことがないんです。もちろん、朝、出勤が億劫だなと思うことはあります。でも職場に行ってお年寄りと接すれば、そんな気持ちも吹っ飛んでしまうんです。

新米の看護師だったころに、思い悩んだ経験があったような気もします。でも、その苦労もコロッと忘れてしまう性格で、そんな気持ちを抱いていたことすら、今は記憶にありません。看護、介護の現場に身を置くことが、なにより楽しかったんです。

もちろん、仕事に没頭してきたぶん、経験できなかったこともたくさんあります。社会に出てから、50年以上の月日が流れましたが、過ぎた日々を振り返っても、そこに流行の歌やドラマ、ヒット映画やベストセラー小説は登場しません。それらを通過することなく、私は看護、介護の仕事に没頭してきました。どんなニュースが昭和、平成、そして令和の時代を賑わせているのか、そんなことにすら疎いんです。

――やはり看護、介護の現場は、それほどまでに余裕が持てない、過酷な状況なのでしょうか?

田中 もちろん、忙しさが原因で世情に疎い人もいるでしょう。でも、私の場合は違います。とくに若いころは、勤務していた老人病院(現在の療養型病院)は、東京の多摩地域の山深い場所にあったので、職場と家の往復(片道1時間)だけで、1日が終わっていたんです。しかも月の半分は夜勤でした。

東京の病院に就職したのは二十歳前。集団就職で故郷を出て、愛知県の診療所に住み込んで、家事の手伝いをしながら准看護学校に通った後のことです。まだ新米ですから、社会での経験、職場で学ぶことすべてが新鮮で、楽しく映った。そうして仕事に没頭するうちに、はたと気づきました。「東京に来たのに、まだ新宿に行っていない」と。

早速、夜勤明けに中央線に飛び乗って、新宿に足を運びました。多摩の山奥とは別世界の都会で、まるでタイムスリップしたような気分でしたよ。

――当時(1970年ごろ)の新宿で、同年代の若い女性を見て、もっと早くに東京の街に繰り出しておけばよかった、と思いませんでしたか?

田中 思いませんでしたね。私とは縁遠い世界でした。現実は多摩の山奥にありましたから。

たしかに今思えば、看護の現場は過酷で、大変な出来事もありました。でも当時の私には、まだ状況を客観視する余裕がなかった。その病院で働くのが当然で、それが私の日常でした。

そのあと結婚や出産を経験して、職場も移りますが、街中から離れた病院であることは変わりません。精神病棟のある高齢者向け病院の建設は、当時、まだ住民に疎まれる傾向があって、どうしても人里離れた場所の立地になることが多かったんです。

食べることと、排泄すること。人間らしさを奪っていく〝抑制〟

――今も介護の現場でお年寄りと接しておられるので、前から高齢者向けの看護、介護を志願しておられたのかと思っていましたが、最初の職場の縁で築かれたキャリアだったのですね。

田中 当時は、やりがいを求めて、自分で仕事を選ぶという考えが一般的ではありませんでした。正直、ほかの職業にいる自分を考えたことはありませんが、それくらい看護・介護の仕事に一生懸命だったのだと思います。

――では、病院での業務に打ち込んでいた田中さんに、心境の変化をもたらした出来事があれば、教えていただけますか。

田中 高齢者向けの精神病棟には、目を離すと徘徊してしまう認知症の患者さん、暴れ出すような患者さんもいました。ずっと監視し続けるわけにもいかないので、当時は「抑制」といって、認知症の患者さんをベッドに縛り付ける処置が、平然とおこなわれていました。

人間って、たとえ認知症の方でも、体を動かす自由を奪われると、どんどん生きる力がなくなっていくんです。症状も、悪い方へ進んでいきます。

制止を振り切って暴れたり、歩き回ったりしていた患者さんでも、きちんと1日3度の食事を平らげ、たとえ這ってでもトイレに向かい、多少は便器を汚してでも自分で排泄する意思とエネルギーがある場合が多いんです。それが一旦、ベッドに抑制されてしまうと、どんどん元気を失っていく。手足の自由がありませんから、看護師や付き添い人が、食事を口に運びますが、みるみる食も細くなっていきます。自分の意思で食べられないから、おいしくないのも当然です。完食できない状況が続くと、献立もお粥など流動食になるので、なおさら精がつきません。

また抑制されると、自分の意思でトイレに行けません。オムツを使って用を足すことになります。元気に歳を重ねる秘訣に、良質な食事を挙げる人がいますが、私は同じくらい、排泄も大切だと考えます。人間は自分の意思で出す力があるからこそ、毎日元気に、自尊心をもって生きられるのです。

あれは、最初の病院で働き初めて1年くらい経ったころのことです。私はいつものように、精神病棟の患者さんの検温を担当したり、医師の指示を受けて注射や投薬の処置を施したり、淡々と業務をこなしていました。

「刑務所はいいよなぁ、刑期があるから。私はここから、ずっと出られない」。

もう抑制されることが当たり前になっていた患者さんが、ポツリと漏らした言葉です。最後の一滴、心の底から捻り出したような声音が、私の胸にさざ波を起こします。

あのときの患者さんの声色と、虚空を見つめるような表情。今でも忘れられず、そのときの自分の気持ちと一緒に、鮮明に蘇ることがあります。このひとことが、私の看護、介護に対する姿勢に大きな影響を与えます。

ただ私も、そのときはまだ二十代前半。患者さんの手足を縛ることに疑問は感じても、抑制の措置があまりに堂々と病院内でおこなわれているために、正面から抗議する勇気が持てませんでした。私が自分の意思を表に出して、前に踏み出すまでには、まだまだ時間が必要だったのです。

「ケアホーム西大井こうほうえん」は、公立小学校を改修した複合施設に入る

――それでも時がたつにつれ、抑制に対する強い疑問を口にせずにはいられなくなった。問題意識が深まっていった理由はなんでしょう。

田中 今でこそ、病院経営にも透明性が求められますが、あのころは鋭利追求主義、懐事情を優先して、とにかく満床状態が続けばいいという病院が存在しました。私の病院でも、患者さんへの回診が流れ作業になる傾向があって、看護師が検温して「微熱があります」と言っても、カルテに「特変(特に変化なし)」とする医師がいました。

また病院が人件費を削るために、入院期間5年、年といった精神病棟の長期入院患者に配膳やオムツ換えなどのお手伝いをさせていました。今では考えられない行為です。

相手の目を見てニコッと笑うことが、田中さんのコミュニケーションの基本

「仕方ない」と諦めてしまう、縛られていたのは医療の方だった

そんなさまざまな現状維持に対する、どうしようもない怒りを噴出させる契機が、お手伝いの患者さんに対する病院の対応です。食事の配膳のときに、その患者さんが人間の上半身ほどの大きさの寸胴鍋を持たされていました。中には熱々のみそ汁が入っています。階段を登っているときに、その患者さんがつまづいて、鍋をそのままひっくり返してしまったんです。煮えたぎるような熱々のみそ汁が、体に降り注ぎました。

「お前、なにやっているんだ!」。

そばにいた上司は、患者さんの打撲と火傷の心配よりも、失敗に対して激怒しました。なぜ医療に関わる人間が、目の前で打撲と火傷に苦しむ人の痛みすらわかってあげられないのだろう。そもそも患者さんを働かせるのもおかしい、もう耐えられないと私は思いました。

盲目的に仕事をこなすだけなら、精神病棟には楽しい瞬間はたくさんありました。どんなに症状が重い患者さんでも、こちらが相手への慈しみの感情をもって接すれば、だいたいは笑顔を浮かべてくれます。同じ目線の高さで手を差し出してみると、逆にこちらの顔もなで返してくれる。温かな気持ちになれる瞬間は、十分にあったんです。このとき私は、打撲と火傷を負った患者さんを必死に庇いながら、抑制の問題は医療する側、私たち医療従事者の諦めに原因があると気づかされました。

結局、医師と看護師が「これでいいんだ」と妥協するから、現場に人間らしさがなくなってしまう。病院の経営陣に言われるがままに働き、人を思いやる気持ちすら当然ではなくなっていたんです。「抑制するのも仕方ない」。深い諦めに縛られていたのは、診る側です。

それから私は、諦めることをやめました。「なぜ抑制するのか、なぜ縛るのか」。医師や上司に明確に抗議しました。「仕方ない」がはびこる医療に、どうして自分の親を預けられるだろう。子どもの治療を任せられるだろう。思いは強まっていきます。

でも反発すればするほど、医師の反感を買い、同僚の看護師からは無視をされる。ついには私の味方は、ひとりもいなくなってしまったんです。

孤立感に苛まれたら、私は病室の患者さんのもとへ行きました。力強さはなくとも、ゆっくりと今日の出来事を話してくれる声に、どれだけ癒されたことでしょう。「あの看護師さん、今日あなたの悪口を言っていたわよ」なんて嬉しくない告げ口も、遠く離れた世界のことのように思えるから不思議です。職場でひとりぼっちの日々、患者さんと過ごした時間が、今の私の原点かもしれません。

そして32歳のとき、私は退職を決意します。看護専門学校で学び直すことにしたのです。私の新たな一歩が、ここから始まりました。(11月号に続く)

- 特集 - 2020年10月発刊 vol.157

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