面白い言葉に出会いました。タイトル通り、Unlearning(アン・ラーニング)という言葉です。
自然食の世界にいると、これが正しい、あれが正しい、の応酬で、とても疲れてしまう会話に出会うことがあります。もちろん、自身に縁があった先生の言うことや情報をそのまま受け止め、学んだ健康法なり養生法なりを厳密に実践して、その結果を評価することは当然のことだと思います。しかし、人の背景はそれぞれに違いますし、体質も生活のスタイルもまったく違います。自分に最高の結果をもたらしたことを人に勧めたくなる気持ちもわかりますが、「あなたは間違っている」と頭ごなしに言われると、どんな人でもイヤな気分になることでしょう。
たとえば、スーパーマーケットやコンビニにまともな食べ物はないというのは一面では正しいことですが、一律に決めつけてしまうことでもありません。お店に置いてあるものはいろいろありますし、仕事や家庭の事情で日常的に手に入れられるものが限定されることもあるでしょう。そういう話をすると、今度は「そういう考え方だから、あなたは病気(不健康)になるのだ」と言われることになり、なにがなんでも自説の正しさを繰り返し伝える、聞かされるだけになります。
砂糖は毒、白米はカス(粕)、医者に行っても薬しか出ない、自然栽培は腐らず枯れるが、ほかは腐る……これらも一面では真理ですが、原則だけで生きられるほど立派な人だけで世の中ができあがっているわけでもありませんし、世の中はもっと多様性に満ち溢れています。知識を得ることは心に余裕をもたらすはずが、単に教条的で画一的、排他的になってしまったという結果は、あまりに悲しすぎます。私たちはなぜ、このような硬直した状態に陥るのか。またそうならないためには、なにが必要かを示す言葉が、まさにUnlearningのような気がしています。
暗記と知識教育が もたらしたもの
私たちは、学校で教えられることは正しいという前提を堅持する国民性です。それが、大人になってなにかを学ぶと、学校で教えられなかった真実を知るに至ります。
とくに自然食や自然療法にまつわるような内容ほど「知らなかった!」という衝撃とともに知識が脳に入ってきますので、秘密の扉を開いたような気分になり、「これこそが正しい」と強く信じてしまいます。「空気を読む」という言葉があるような言語体系で暮らしていますから、同時に同調圧力の存在もよくわかるので、ますます他の人が知らなさそうなことを知ると、心のどこかに小さな優越意識が芽生え、他人に押しつけたくなるという構図です。同時に、そんなことをしていると地獄に落ちるというようなムードもセットになって会話されるので、ますます偏狭に語られるようになります。ファクトよりも空気、広く知られていることよりも限定的な情報に価値があるという思い込みが、カルトやマルチ商法が広がりやすい土壌を作り出しています。
誰かをコントロールしたいと思っている人ほど、恐怖とセットでなにかを伝えようとしますから、なおさらに危険です。こんなときに必要なのが、自分が学校で、そして大人になって学んできたことをすべて一度手放してみる勇気。それがUnlearningという言葉に濃縮されているのではないでしょうか。
私はこの英語の一単語を知ったとき、日本人のどこかに「知識はどんどん積み上がるもの」という前提が眠っていると感じました。学びを意味するlearningに否定のUn-を接頭させるこの異国の言葉は、日本とはまったく知識の体系が違う世界を想起させてくれます。
この言葉についての解説は、インターネットに溢れていますので、検索していろいろ読んでいただくとよいかと思います。日本語にない言葉ですから、多様な解説がなされていて、実に面白いのですが、結局のところ、知識は振り回すものじゃないんだよ、違いや多様性をもっと意識しようね、ということに尽きるように思います。どうして、こういう言葉が日本語にないのかと考えたとき、せっかく学んだことを一度忘れたり、捨てたりするなんて、もったいないもったいないというニュアンスが、私たちに浸透しているように感じています。
なので、〝らくなちゅらる〟®
〝らくなちゅらる〟®の真意は、まさにここにあります。古今東西、いろいろなことを好奇心をもってたくさん学び、そして一度忘却の彼方へ放り投げる。こだわりを少なく、心をゆるやかにして、人生を遊び尽くす。その結果、もう一度ナチュラルに収斂してきた知識を新たなことを学ぶなかで、人生の芯に据えていく。
この楽しいプロセスこそが、〝らくなちゅらる〟®の一語に込めた私たちの思いなのです。あなたの人生が、もっと豊かでやわらかいものでありますように。