初めて来院した患者さんから、「通院している主治医は、人のいいお医者さんと聞いて受診しているんです。でも、症状を伝えるたびに薬が増えて、今では10種類になり、さすがに多すぎる気がして。それを伝えたら大丈夫ですと言われたんです」という話を聞いた。
この「大丈夫」という言葉は、どういう意味だろうか。また、そもそも人のいいというのはどういうことだろうか。それは「言葉遣いが優しい」とか、「丁寧に話を聞いてくれる」とか、「要望をすべて受け入れてくれる」とか、「身体の不調を変えるのは自分しかいないと気づかせてくれる」ということなのだろうか?
つらいときは、優しさが身に沁みる。誰かに優しくされたいと意識が向きがちだ。しかし、相談に来る方と話していると、自身に優しさを向けている人が少ないと感じる。自身のことを後回しにしたり、自身に厳しくなってしまうと、余計に他人の優しさに甘えたくなってしまう。自身に優しさを向けることが大切だと頭でわかっていても、困っている人がいたら助けてあげることを良いとする日常生活のなかでは、どうしても自身のことは後回しにしてしまう。本当にそれでいいのだろうか。
優しさの本質
コロナ禍のとき、診療で処方する風邪の漢方薬が入手しづらくなっていた。たまに診ていた方が、遠方に引っ越した矢先にコロナになり困っているとSNSで連絡がきたことがあった。当時は診療所にきた方を診るだけで精一杯だった。しかし、放っておけず、薬や対処法などを送った。一向に返事がなく気にかけていると、しばらくしてから対応がひどいので腹が立ったと連絡がきたのだ。そのとき、患者が医師になにを求めるかは、患者がどのように生きていきたいかに深く関わっていると感じた。
今思えば、毎日の診療をこなすことさえ難しい状況で、協力はできないと伝えたほうが互いに良かったのかもしれない。まず自分に優しさを向けようと決めることに、優しさの本質があると感じている。診察では、どうしても耳障りのいい言葉ではないことを伝えることもある。なかなか上手く伝えられなくて、落ち込みそうになることもある。それでも「今はできない」と必要なときに言えることは、自分にも相手にも優しいことなのかもしれない。
私の愛読書『今日、誰のために生きる?』には、「自分を絶対に、置いてけぼりにしてはいけないよ」と書かれている。自分を置いてけぼりにして他の人を優先して生きていると、自分も他の人も救えなくなる気がする。自分に愛を向けていないと、目の前で苦しんでいる人に心を向けるフリはできても、心を添えることは難しい。
心理学者の東畑開人さんの著書『雨の日の心理学』に、「優しさというと、ついつい気持ちとか性格とかと思われがちです。でも、そうじゃない。技術である。人と自分との『似ているところを見つける技術』である」、「誰かがわかろうとしてくれたことは、たとえ十分には成功しなかったとしても、こころに残ります」とあった。心を向け続けることができるように、自分のなかに穏やかな元気さを持っていたいと思った。そのためには、人をケアする人は、人からもケアされている必要性を感じる。
今年は母が夏風邪になり、しばらく静養を要した。そのとき、私はどうすればよりよいケアができるのかを模索していたが、母のそばにいて見守ってくれた母の友人がいた。不調のときは、自分のことで精一杯なり、人に気遣いや心を向けにくくなる。そんな母のそばにいても、その方は安らかさを感じさせるような空気をまとっていた。優しさをもってケアすることの本質を学ばせてもらった貴重な時間だった。