子どものころ、両手でそろばんができる達人がいた。自分も両手でそろばんができるようになりたいと憧れて、そろばん教室に通い夢中になった。しかし、そこまで上達するにはハードルが高く、残念ながら両手でできるようにはならなかった。それでも初段に合格し、その祝いにボタン一つでご破算ができる便利な「ワンタッチそろばん」を買ってもらった。
あるとき、そろばんの試合で、緊張のあまり変な力が入ったのか、答えを書く前に、ワンタッチボタンに手が触れてしまった。見事にまっさらに答えは消えていた。あのときのことはいまでも鮮明に覚えている。苦い思い出だ。
書道も習っていて、週に一回は教室に行って、何時間も夢中になって書き続けた。あるとき、作品展に出す納得のいく出来のものが書けた。あとは最後に名前を入れるだけだ。しかし、なにを血迷ったのか、苗字と名前を逆に書いてしまったのだ。あのときは真っ青になったのを覚えている。そして、ピアノも習っていたのだが、上達することより、ただピアノを弾くことが楽しかった。
子どものころは、手を使い、道具を使い、なによりも夢中になって、楽しみや心地よさを追求していたような気がする。良い思い出も、苦い思い出も、不幸な結果も、それらすべてが、いまの自分の肥やしになっている。本などで得た情報を頭で理解した記憶よりも、子どものころに手を使って覚えた身体に染み込んだ数々の記憶のほうが、簡単にはなくならないような気がしている。
子どものころに、わけもわからず夢中になった経験は、大人になって苦悩したときに、自分で自分を楽にするヒントを与えてくれているように感じる。たとえ、すぐに結果は見えてこないとしても、それは決して無駄な時間ではなく、未来の自分への貴重な種まきのようにも思うのだが、どうだろうか。
自分を楽にするヒント
初対面の患者さんに、簡単で明確な答えや指示を求められることが、以前よりも増えてきている。しかし、医療の分野に身を置いていて感じるのは、自分が楽に生きることへの正解があるとするならば、それは自分の外にあるのではなく、自分のなかにしか見出せないということだ。
たとえば、腰痛があって、この向きで横になったら少し楽に過ごせると工夫してみることや、下半身やお腹を冷やさないように自分なりに模索してみること、イライラしたときやドキドキしたときに、少しその場を離れて深呼吸をしてみること、お茶を飲んでひと呼吸おくことなど。そういった日頃からやっている単純なことにも、自分を楽にするヒントはあると思うのだ。
些細な変化を見つける
いまの自分にとってなにがいいのか。なにが物足りないのか。自分にしか見つけられない楽に生きるための処方箋は、日々、実験するような気持ちで、自分の身体やこころの声を聴くことや身体やこころが少しでも楽になることなど、日々の些細な変化を見つけることの積み重ねを地道にしていくことで、見えてくるのではないだろうか。
だから、忍耐力も必要で「専門家や医師に、答えをすぐに出してもらう」という意識が強いほど、些細な変化に気づきにくくなるのかもしれない。
作家の五木寛之さんがある精神科医との対談で、『体の発する声』について、「その声を聴く謙虚さを、今の現代人は失っている感じがします」と仰っていた。自分の身体やこころの声に謙虚であることは、生きることを楽にしてくれる。自分の身体やこころの声を丁寧に聴き、それ自体を楽しみながら生きることは、私たちが生きている間にしかできない、最高におもしろい実験のような気がしている。