実家にトネリコの木がある。プランターの土では元気が出ないのだろうかと思い、信頼できる植物の師匠の力を借りて実家の小さな花壇に植えた。まず花壇を掘り起こしてみると、植えてあるヤシ科の植物の根が、すごい勢いで横や下に張っていた。その根の凄まじい成長ぶりに、「目で見えているものがすべて」と、普段から思い込んでいることに気づかされた。その根の影響で、他の植物は成長しにくかったことだろう。想像力を働かせて見えないところまで見ようとせずにいたことを反省した。
「スラックとプラチャーの音もなく慈愛は世界にみちて」というドキュメンタリー映画がある。そこでタイの環境平和活動家であり、仏教の精神を社会変革に活かす「エンゲージド・ブディズム運動」の指導者のスラック・シワラックさんが、タイの格言を紹介していた。
『「木が倒れる時、大きな音をたてるが、木が育つ時には音がしない」今も、多くの木が育っているのです。大きな音をたてて木が倒れる一方、木々は育っている。ブッダは木から学べと教えた。健全な種子は、木へと育っていく。でも、そのためには、種子はまず土のなかに入り、大地に抱かれ、適応しなければならない。環境に適応しなければ、良い種子も芽生えない。また、忍耐も必要だ。風雨や灼熱の太陽に耐えながら木は育つ。成長した木はすべてを与える存在です。鳥に、蜂に、人に、果実や木陰などを与える』
木が育つときには音がしないという言葉にはっとしたのだ。育っている実感や成果がはっきりしないと、どうしてもジタバタしやすい。植物は夏の猛烈な暑さや風雨に晒されても、必死に根を張りしなやかに力強く立っている。また、室内で育てる植物は、猛烈な日差しや風雨には晒されないが、締め切った室内などで適度な風がなければ根腐れしやすかったり、プランターの土の環境だけでは、必要な微生物が育ちにくかったりする。それぞれ耐えながら育っているが、その質が違っていたのだ。環境に適応しようと、たくましく生きている植物の凛とした生き様が、あらためて見てみると学びに満ちている。緑の葉の茂る木の姿にも、枯れている冬の木にも、新芽が芽吹いてくるころも、あらゆる季節の小さな植物の営みに、もう少し丁寧に目を向けてみようと思った。
また、スラック・シワラックさんは、『今こそ協調的な相互依存の考え方へと転換する時だ。木は私だけのためにあるのでもない。木なしに私は生きていけない。木々の呼吸のおかげで私も呼吸できる。すべてが互いに依存していることを知れば転換が起きる。それは大きな変化となるでしょう』と話していた。当たり前にあると思っている木々に、私たちは助けてもらっている。目では見えないモノにも心を向けて、植物や土のなかの微生物たちとも共存する、共生の社会に生きていることを忘れないでいたい。
好きな絵本に、作者シェル・シルヴァスタインの『おおきな木』がある。りんごの木がじっとそこに居て、母なる深い愛情を少年に向け続ける。このりんごの木は、少年に、みずからを削って、葉や果実、枝、幹、自身のすべてを与える。見返りを期待しない、無償の愛を与えているのだ。しかし、すべてを与える行為が無償の愛という解釈だけではなく、「愛とはなんだろうか」と問われている気もする。そして、人や自然が生きていくうえで逃れようのない老いや静かな苦悩のようなものも、丁寧に描かれいる。木と言葉を使ってコミュニケーションはできないが、木の変化に呼応することで声を聴くことはできるような気がしている。そして、ただ元気に生きていてくれると、それだけで嬉しくなる。このやりとりこそ、まさに「ケアするものが、同時にケアもされている」という、共生なのではないだろうか。