友人に誘われて、東京から仙台、さらに塩釜から船に乗り、寒風沢島にやってきた。この島が「サブサワ」という読み方であることは、出かける数日前に患者さんから教えてもらった。行き先の読み方すら知らずに、旅に出ようとしている自分に、思わず笑ってしまった。読み方を教えてくれた方は、東北出身で、小学校の同級生に寒風沢君がいたそうだ。それを聞くと、急に未知の島が少しだけ身近に感じられた。私は伊豆育ちで海には慣れ親しんでいるが、海岸線から見えるところに島々が散在する風景は伊豆では見られないものだった。
島に着いて樹木医の解説を聞きながら、島をぐるりと歩いて回った。この島に誘ってくれた友人は、東日本の震災後から物語りを紡ぐプロジェクト(桜onプロジェクト)を続けている。この寒風沢島でも、プロジェクトの一環で植えた樹齢13年の桜がすくすくと育っていた。ヨモギが道端にあり、120年に一度咲くといわれる竹が花を咲かせた跡や、桜の実を味わう光景が広がっていた。木の下でお茶を嗜んだり、田んぼのなかにいる蛙をみんなで見たり、鳥の声に耳を傾けたりした。実際に来て、歩いて、匂いを感じ、味わって、五感を通して感じてみて、なんでもないような時間がこのうえなく貴重だと気づかされた。そして、都会のなかにいて忘れていた、鳥の鳴き声や風の音、虫の声などの音しか聞こえてこない自然の豊かさにもびっくりした。
私の診療所は、都会のなかにありながらも、鳥のさえずりが時折聞こえてくる。しかし、飛行機が上空を飛んでいたり、近くには首都高速があったり、自動車やサイレンの音など、雑踏のなかにある。都会に比べると伊豆は静かだが、寒風沢島はそれ以上に静かで、人と話をしていても、相手の声しか聞こえない環境は、なんと贅沢なことだろう。都会の暮らしのなかで、聞こえているはずの雑多な音を無意識に感じないようにして生きていることに改めて気づいた。都会で暮らしていると、人工的な音や光などの刺激が多過ぎて、身体は感覚を鈍らせざるを得ないのかもしれない。
寒風沢島には、今は77人が暮らしていて、高齢者が多く、若者は都会に出て少ないそうだ。物資は船で運ばれてくるため、都会のように物がなんでも揃うわけではない。島の暮らしは、都会の暮らしの便利さと比べると不自由さを感じてしまうが、都会のなかで慌ただしく過ぎていく時間とは違う、生き物としての人間らしさを感じるような時間を過ごすことができた。都会に暮らしていると、どうしても便利さや快適さが優先され、人が自然の一部であるということや、生物としての本能のようなものが優先されにくいのかもしれない。しかし、緊急を要するような病気になったときなどは困ることもあるだろうなとも思った。
都会の便利さも、島の自然の豊かさも、そのどちらにも素晴らしさや困りごとがある。しかし、島の人と島以外の人がつながり、互いを少しでも知ることができたら、なにか希望が見出せるのかもしれない。ゆるりとつながることで、自分が見失いそうになるものに気づけるのではないだろうか。そんなことを思う旅になった。
普段、私たちは仕事場に行く、買い物をするなど、なにか目的を持って行動している。しかし、島にはなにも目的がなくても、ただそこにいていいんだと思わせてくれる雰囲気があった。
生きることはなにかを成し、評価されなければならないという思い込みからくる、焦りや不安を感じることがある。しかし、目的があろうがなかろうが、人からの評価を気にせず、ただそこに生きていていいんだと思えることは、なんて素晴らしいことなんだろう。都会のなかで暮らしているとうっかり忘れてしまっていた、小さな幸せを見つけたような気がした。