きのくに子どもの村通信より 自由学校の気になる子ども(3)けとばせ、学力低下論
学校法人きのくに子どもの村学園 〒911-0003 福井県勝山市北谷町河合5-3 |
自分の名前も書けない!?
十三年前、きのくにの開校の年のことだ。ある6年生の子のお母さんから手紙が届いた。
「うちの子は入学して半年になるのに、まだ学力が追いつかない。どうしてくれる?」
前の学校からの書類では、ほとんどの教科の評価が「1」だ。学習でつまづき、傷つき、勉強ぎらいになった子である。
4年生の子の両親から学力についての苦情がきた。「名前さえ漢字で書けず、九九もいえない…。」しかしこの子の基礎学習のプリントは赤丸で埋まっていた。名前もきれいな漢字だ。両親が家で学力を点検したらしい。(子どもは緊張と恐怖のため実力を発揮できない。結局、この子は転校させられた。)こんなに急ぐ保護者は滅多にいない。しかし時折り「勉強の遅れが心配」という声が、直接に、あるいは間接的に聞こえてくる。
ゆとり教育が諸悪の根源?
今、世の中では大きな地滑りが起きている。OECDの調査で中学生の学力がトップクラスから落ちたと大騒ぎなのだ。「ゆとりの教育」が非難の的だ。「週五日制による授業時間と学習内容の削減がけしからん」「基礎・基本を叩き込め」「土曜日に授業を」という。総合的な学習もピンチである。一方では「百ます計算」がおおはやりで、一部の教師が目を血走らせてストップウォッチをにらんでいる。昭和四十年代の詰め込み教育の愚行が繰り返されようとしている。
どんな学力が低下したの?
冷静に考えてみよう。子どもの学力は本当に低下したのか。低下したのはどんな学力か。ゆとり教育や総合的な学習が原因か。学校や教師に責任があるのか。世にいう学力が低下したら何が困るというのか。そもそも教育の目標は何か。
今回の調査で調べた学力は、前とは違って暗記された知識や機械的な計算ではない。考える力だ。だから日本のこの順位が落ちたらしい。考える力や問題発見能力は、もともとこの程度だったのだろう。
学力低下論者は「基礎・基本にもっと時間を」と叫ぶ。彼らの基礎・基本は従来のタイプの知識だ。反復練習と詰め込みである。しかしそれでは創造的に考える力はつきにくい。これが今度の調査ではっきりした。その困ったやり方を強化せよというのだから滑稽の極みである。
みずから 楽しく じっくり学ぶ
成績トップのフィンランドでは
2月20日の朝日新聞に、面白い記事が二つ載っている。 一つは中山文部科学大臣(元大蔵官僚)の「脱ゆとり路線」、もう一つはこの調査で最優秀のフィンランドの学校の紹介だ。
この国では塾も予備校もない。高校は中学の成績で決まるが、ゆっくり準備してよい。他人との比較や競争がない。 国はカリキュラムの大網を決めるが、詳細は各校に任される。授業時間は日本より少ない。学習の基本は「楽しんで学ぶ」である…。基礎・基本を叩き込め、というのとは正反対なのだ。
きのくにでも同じだ。きのくにの基礎学習は、普通の生活やプロジェクトから題材をとる。年齢や学年にとらわれず、たて割りグループで学習する。試験も宿題もない。プリントは友達と相談して解いてもよい。
このやり方で子どもは力をつける。例えば彦谷の村を調べて分数の学習に発展させると、小学三年でも異分母分数の足し算が二か月ほどで理解できる。家づくりから、五年生が、感動しつつピタゴラスの定理を発見する。英語の時間は少なくても、中1の95%が、すでに英検の五級以上に合格している。普通の学校ではこうはいかない。
学力問題は授業時数の増減の問題ではない。必要なのは暗記や反復練習の強化ではない。総合的な学習の廃止でもない。学習の方法と環境の見直しだ。つまり、じっくり楽しく進み、発見と創造の喜びを満喫する学びのスタイルなのだ。
教育の目的は何か
せまい意味の学力は、私たちの一番大切な教育目標ではない。目標全体の五分の一程度の比重だ。私たちの目標、つまり育って欲しい子ども像は次の通りだ。
感情面…?無意識の不安や抑圧からの解放、?はっきりした自己意識、自身、繊細な感覚
知 性…?強い好奇心と創造的な思考の態度および能力、?幅広い興味と情報
社会性…?強い自我と自己主張、?ともに生きる喜びと人間関係の術(すべ)
この三つは同等の重みを持つ。
サマーヒルのニールが伝統的な教育観に敢然と挑んだのは、まさにこの点である。学校は既成の知識と価値観を伝達する場ではない。むしろ子どもがそれらを創造するのを援助する。それが教師の仕事だ。こういう学校では、結果として「学力」も遜色なく育つ。サマーヒルの卒業生やきのくにの子どもがそれを証明している。繰り返し強調しよう。世にいう学力は、教育の主要目標ではない。
サマーヒルのニールいわく
「あらゆる因習と偽善と迷信から解放された時、その時はじめて私たちは教育を受けたといえるのだ」
知識と既成の価値観の伝達が中心の学校では、因習にとらわれ、偽善におぼれ、迷信を疑わない子が育つ。