国産の砂糖が作られるようになったのは江戸時代。当時の甘味というと、蜂蜜や干し柿、もち米から作る水あめなどでした。砂糖や砂糖菓子は輸入品で、大名や僧侶など一部の上流階級の人たちだけが口にできたようです。
琉球では1623年に儀間真常が製糖技術を中国から持ち帰り、黒糖を製造していました。薩摩藩は琉球侵攻の後、琉球、奄美に黒糖の上納を課し、その販売によって莫大な利益を上げていました。また、黒糖や白砂糖がオランダや中国の商船から長崎に持ち込まれ、大坂で高値で流通される状況を見て、大名たちが砂糖を戦略物資として重視するようになりました。主に西国の温暖な諸藩では、サトウキビ栽培や製糖技術を競って手に入れようとしました。当時、藩同士はどこもライバル関係で、藩外不出どころか藩内でも極秘裏に製糖技術を入手したり、サトウキビの苗を入手したりすることは、命がけだったようです。
海外からの砂糖の輸入量が飛躍的に増加していくなかで、幕府は国内の金や銀の海外への流出を止めるために、8代目将軍・徳川吉宗がサトウキビ栽培と製糖を奨励します。幕府は貿易で来日する中国人や、薩摩、長府、尾張などの藩から精糖技術を習得していた技術者を呼びよせ、また現地調査に出向いて学び、秘伝だった精糖技術のガイドブックを作成するまで普及に努めました。
讃岐や阿波で有名な和三盆糖はそんな時代のなかで独自の技術進化を果たした逸品です。和三盆糖が生まれた歴史的な背景は、なかなか理解できるものではありません。なぜなら、和三盆糖の製造には黒糖の製造に比べて数倍の工数と時間がかかるうえに、できあがる製品重量は黒糖より少なく、理に適わない大変さを伴うからです。「当時、薩摩藩が黒糖の販売によって莫大な利益を上げているなかで、何故わざわざ和三盆糖なのでしょう?」
この謎が解けたのは、昨年末に、江戸時代から続く讃岐和三盆糖の本家本元・三谷製糖様を現地探索で訪問して学ばせていただいたことがきっかけです。(次号につづく)
和三盆糖のお菓子