昨年からの度重なる製造日、賞味・消費期限の付け替えや中国産冷凍食品の農薬混入などで、食の安全が盛んに叫ばれているのはご存じの通りです。騒ぎの渦中では、「消費者の安全を守るために」ひたすら回収、ひたすら破棄が当たり前という雰囲気になりましたが、このところ一部の新聞の報道では「食品の大量破棄は本当に良いのか?」という問題提起がなされるようになってきました。
私は食品流通の業界にいるものですから、これらのニュースに耳を傾け、注意を深めているのは当然です。しかし一方で「とにかく新しくて期限まで長いもの」という消費者ニーズの陰には、大量の食品破棄が起きるであろうことは、ずっと前から懸念してきました。実際、ものすごい量の、まだ食べることの出来る貴重な食べ物が破棄され、それが消費者安全の決め手という風潮が、今回の事件によって一気に加速してしまいました。「もったいない」が世界の標準語になりつつあるとき、なぜか「もったいない」の祖国である日本は、その精神を捨てつつあるのです。
私の幼少期、料理をしてくれたのは祖母でした。祖母は明治生まれのひとでしたから、本当に食べ物を大事にするのです。幼少の頃から教育も受けず、丁稚奉公に出て、真冬でも冷たい水で米を研ぎ、手も足も霜焼けだらけにして働いた話をたくさん聞きました。私が生まれてからも、我が家は貧しい中にいましたから、料理は常に質素で、ご飯にみそ汁、そしてもう1品があれば充分豪華な食事でした。今も妻が「慶音が泣いたから、1品しか作れなかった」と詫びてくれるのですが、私にはなんの苦痛でもありませんし、それで充分だと思えます。
そんな祖母でしたから、幼い私は、祖母がお茶碗に残ったご飯粒を番茶で綺麗にして食べる光景を毎日のように見ていました。そもそも、家で食べられないほどの大量の食品を、安かったからという理由で買い込むこともありませんでしたが、真夏に時間が経ってしまった食べ物がまだ食べられるかどうかは、私も一緒になって臭いでみたり、色を観察したり、少し食べてみたりして酸っぱくなっていないかを確かめるのが常識となりました。さらに、祖母は醤油、味噌以外の加工食品のたぐいはまず買うことがなかったのです。昔から伝わる、正しい製法で作られた食品には、長い年月のなかで検証された保存性に優れた作り方がなされているわけですから、いつまでに消費するべきという明確な期限は本来的にいらないはずです。残念なことに、市中には安易に作られた、農薬や食品添加物にまみれた「食べ物もどき」が大量に存在するために、期限を明確にする必要が出てきたのでしょう。今は、天日干しにした干し椎茸や塩だけで漬けた梅干しにまで、「食べ物もどき」とともに法によって期限の明示、そしてそのことによって、安全のために破棄の必要が生じるのです。
もっと悲しいのは、完全無農薬、完全天日干しで作られた椎茸や千切り大根などに虫が混入していたときに大騒ぎになることです。無農薬でつくるために数倍の手間と根気をかけて作った農産物が、虫が付いているという消費者からの指摘により、私たちのような法を守る必要のある流通業者からの連絡で、生産者に保健所までが調査に入るようなトラブルが起きるたびに、本当の「消費者保護」とは、ほど遠い現実に涙が出ます。祖母が見ていたら、『虫が付いていたらここまでを切り取って、ここは使えるよ』と教えようとするでしょう。
私は、食品を取り扱う事業者として、それが出来ずに原因究明と再発防止を関係各位にお願いする以外に、今は道がなくなってしまいました。そのたびに、真実を求め無農薬、無化学薬品を貫こうとする生産者の方のモチベーションを下げ、ひいてはより美しく、均質で、かつそれを維持するために必要であろう化学処理も成された、虫のいない食品の必要性が間接的に高まり、農業を衰退させ、食料自給率の低下に拍車をかけなくてはいけなくなるのです。
ある無農薬の野菜を真剣に流通する会の代表者は嘆きます。ニュースなどから食品の危険性を見聞きし、安全な食品を捜して会員になった顧客のうち、会員をやめる動機のトップ3は「虫がついていた」「見た目が汚い」「欲しい野菜が入っていない」だというのです。「無農薬で、虫がなく、美しく、季節はずれの野菜が入っている」という顧客ニーズと、それを保護する法律がある限り、この代表者も私も、顧客ニーズと生産の現場の間のジレンマ、そしてこのような現実をアピールするかどうかについて、眠れない夜を過ごすことになりそうです。