またこの美しい国で、新しい1年を迎えることができました。まずはこの幸運に感謝したいと思います。
わたしはつい先日までインドにいました。2年前のこの欄でも触れたことがあるのですが、インドのヒンドゥ教徒の死生観には独特のものがあります。3千年を超える聖地としての歴史があるヴァラナシという街は、生と死のエネルギーがうずまく場所です。この地で母なる河ガンガー(ガンジス河)に遺灰を流されることは、彼らにとって唯一無二の幸運であり、これによって、輪廻転生する苦しみから永久に解放されることを約束されている特別な機会なのです。彼らは、墓は持ちません。灰はすべて河に流され、ガンガーはその全てを受け入れ、過去も未来にも悠々と流れ続けてきました。
わたし自身や、わたしの大切なひとが人生で方向感を失っているとき、この街を訪れることを習慣にしています。そこにはとぎれることなく、大量の遺体が元気な祈りの声とともに運び込まれます。そして、ガンガーの岸に運ばれては、薪に火をつけて、ひとは焼かれていきます。それは実に淡々としたもので、誰も涙することもなく、この光景は誰でも見ることができるのです。日本では2008年に映画「おくりびと」が公開されて、人の死について同時多発的にたくさんのひとが考えを巡らせることになりました。おなじように、旅人がヴァラナシにいくことは、まさに呼吸のすべてが生と死を感じさせる瞬間として意識させられることになります。だから、わたしにとってこの場所を訪れることはとても大切なことであり、自分とは単なる肉体だけではない「何か」であることを再確認するとても貴重な学びの場所となります。
どうして、新年早々、死についての話をするのかといぶかしく思われるかもしれません。それは日本人にとっては縁起のわるいことと解釈されることは心得てはいます。しかし、そこには『解釈の違い』が、あるできごとに意味を与える過程について再考するチャンスがあります。ほとんどの人にとって、死は『終わり』を意味しています。終わりを考えることによって、「幸運にも」終わっていない今をどうやって有意義に生きるかということを考える人がいます。いっぽう、ある人にとって、死は『永久のいのちへの始まり』と認識されます。何度も生まれ変わり、苦しみを味わうことから解放され、無限のいのちと合流できる始まりとして祝福する人がいます。これほどまでに違う価値観の渦の中に自らをおくことによって、できごとに対する意味づけが大きく変化し始めます。死の灰が流された河の水が、ある価値観のもとでは『聖なる水』になり、その同じ水で身を清めることを欲されることがあります。そんな不衛生なことはあり得ないと思う人もいます。果たして、どちらが正しいのでしょうか。
世の中は不況だ、デフレだと大騒ぎしますが、この流れそのものを変えることができる個人は存在しません。事実は事実です。しかし、ここにどんな意味を見いだすかは、誰しもが自分自身で変えることができる、無限の自由を手にしています。この意識のもつ究極の自由を活用しない手はありません。「生きるのに必死だから、そんなこと考える余裕なんてないよ」というときこそ、もう一度『起きているできごと』と『その解釈』を、ゼロから考え直すよいチャンスだと思いませんか。
その悲しみは、ほんとうは悲しむべきことなのでしょうか。
その喜びは、そのことがないと喜びにはなり得ない、とても限定されたものなのでしょうか。
あの人は、ほんとうはそんな人なのでしょうか。
それは、ほんとうに許せないことなのでしょうか。
ほんとうにそれは正しくて、あれは間違っているのでしょうか。
新年には、新しい信念を考える。わたしはそんなふうでありたいと思っています。それがわたしの中でおきる戦争を封じる平和(シャンティ)の道であり、世界から戦争をなくす愛(プレマ)の道でもあるのです。