今回は、極めて個人的な告白からスタートすることになりますが、どうぞおつきあいください。
実は、本稿を書いている直前に、私は覚悟していた手術からいったん解放されました。もともと病弱な私は、一年半ほど前から著しく体調を崩していました。ストレス過大からか、胃腸炎と逆流性食道炎の悪化、それに伴う喉の異常、心理的な不調まで、ドミノ倒しであちこちが悪くなっていた状態です。
そんな最中に受けた人間ドックで、喉にガンの疑いがあると指摘され、その足で耳鼻科に飛んでいき、そこで声帯の奥に何かできものがあるということがわかりました。紹介された京都の大学病院で「ガンではないが、別の病気が悪化しているようだから、全身麻酔で治療を兼ねた正確な診断のための検査をしてください。入院期間は一週間です。日取りを決めましょう」というところまでいきました。
とはいえ、画像で見る喉の異物は決して大きくなく、たったこの数ミリのために仕事を差し置いて全身麻酔での検査に一週間の入院をすることは避けたいと思い、想定される病気で日本一の先生は誰かと探し始めました。その結果、東京にある大学病院の名医の門をたたき、やはり同じ全身麻酔での治療と検査を勧められたのですが、難色を示したところ、「じゃあ、とにかく日帰りでやってみましょう、ただし局所麻酔で喉の組織をひきちぎるので、決して楽ではないですよ」と告げられ、ふたつ返事でこの検査を受けることにしました。結果的に、京都の段階から指摘されていた通り、「喉頭乳頭腫」という良性腫瘍ではあるが、ものすごい勢いで再発を続ける相当難しい病気であると診断されました。
この腫瘍、早い話が子宮頸ガンを発症するのと同じウイルスを原因とするもので、それが病状として喉に出ればこの病気、子宮頸に出ると子宮頸ガンとなります。当然、私のことですから最初の異常を指摘されたときから、昨年連載をお願いしていた六角田中医院の田中先生をはじめ、あちこちの代替医療の先生方にもお世話になり、全身の状態はかなりのスピードで回復。喉頭乳頭腫も幸いに再発がなく、経過観察の間隔も開いていきました。私がかかった諸先生方の治療や、私が選んだいわゆる食事療法や機能性食品はきちんと効果を出してくれていたのです。
再発告知
節分過ぎの二月、東京での経過観察で、喉を特殊なカメラで覗いている先生から「やっぱり」という声が聞こえました。もしかして、と思った通り、先生は「この病気で組織をつまんで取っただけで、こんなに再発がないなんて、前例がないんですよ。でも、やっぱりまたできています」と仰いました。確かに、病変があって取り去った場所に、またぷっくり膨らみができています。当然に手術を告げられましたが、私はいま新規事業スタートの真っ最中、すぐには難しいので調整してまた来ます、といって予約を取り直したのが、この原稿を書いている今日なのです。この一ヶ月の猶予期間のあいだに、手術のための日程調整を進めつつ、同時に手術しなくて済むようにあらゆることを平行してやってみようと決断していました。弊社で販売している意識進化装置ロゴストロンの力を借り、不思議なご縁である方とお会いして特殊な力をいただき、もう一度自然療法を整理してシンプルに続け……とやるだけのことはやりましたが、今朝、病院の玄関をくぐるときには覚悟がありました。私が考えていたのは「たとえどちらになったとしても、自分はこのことを学ぶために生きているんだから、たとえどうなっても最善の出来事にしよう」ということだけでした。先生に挨拶をしたあとで「先生、願わくば、腫瘍が大きくなっていないのなら手術は先延ばししたいのです」といって診察台に座り、いつものように口をあけて「へー」と発音すると、今度は先生が「あれ?」というのです。画像を見ながら先生は、右側だけだった膨らみが左側にもできていることを指摘され、「なんだか、ちょっと違うような気がするから、別の特殊な装置があいたら、もう一度見ましょう」と、別のカメラへ。そして、再度先生から呼び出されて「ちょっと、前例がないんですよね、つまんで採っただけで、これだけの期間再発がないのは」「どうも、とにかく乳頭腫とは違うようなので、手術はとりあえずやめて、3ヶ月後に再度様子を見ましょう」ということで、私は今、パソコンの前に座っています。
たとえ手術になったところで悲観もせず、経過観察だからといって喜びに溢れるわけでもなく、淡々と起きていることをあるがままに見よう、という、そういう気持ちで今を迎えています。もちろん、前例がない奇跡は嬉しいことですし、手術しないで済むに越したことはありません。でも、この一ヶ月で改めて決めた態度は、起きていることにはすべて意味がある、意味づけするのは自分の心、ただその一点だという覚悟だけなのです。今回の出来事を通して私がしたことは、病気とは闘いもせず無視もせず、都合のよい解釈だけに固執せず、私はここから何を学ぶのだろうかという問いを続けていることだけです。
もう一つだけいいましょう。生きていることは素晴らしいことだ、それだけでどれだけ無数の幸いに支えられているのかと思うと、それ自体に深い感動を覚えます。願わくば、いつか死を迎えるときにも、産まれて生きて死を迎えるという流れを、あるがままに感動をもって受け止めていたいと念じています。