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特集

インタビュー取材しました。

好奇心という 本能を取り戻す 前編
5RHYTHMS 講師 雅代ベノア氏

投稿日:

動く瞑想といわれる振り付けのないダンス「5RHYTHMS(ファイブリズム)」の
講師である雅代さんは、元役者で、ダンサー。
ところが過労による脳出血で左半身不随に。
リハビリして杖で立てるようになると渡米し、5リズムに出会います。
そのパワフルな半生とともに「挑戦」と「負けない心」についてお話しいただきます。

5RHYTHMS(ファイブリズム)
講師 雅代 ベノア(まさよ べのあ)
福井県小浜市出身。ロサンゼルス在住。役者、歌番組ダンサー、ミュージシャン、CG アーティストを経て1998 年脳出血により左半身麻痺となり人生をリスタートすべく渡米。2009 年、通訳として5リズムに出会い「自分がやってきた演劇、音楽、心身、すべてがここにある!」と魂が震える。2014 年に講師となり、人間の持つ「本来のチカラ」を引き出す5 リズムを日本に広げるべく精力的に活動中。www.masayodance.com

 

自分を律する「演劇」の道へ願掛けの座禅をした中学時代

—芸能活動を始めたきっかけを教えていただけますか?

雅代 多宗教が混在する家庭環境で育ち「神様っていったいなんだろう」という疑問が幼少期からありました。
父方の祖母が仏教、父が神道、母が立正佼成会(一時期)、叔母が創価学会、母方の祖父母が天理教、私たちはキリスト教の幼稚園に通っており、その疑問が私のベースにあります。
また、たまたま器用だったので、ピアノもバレエも二番目になれるのに、なぜか一番にはなれない。
例えば、ピアノのコンクールで、県で入賞するのに最優秀賞は取れない。その差はなんだろうと思ったときに、指が転ぶとかリズムが走るという細かいディテールではなく、
「あなたのここがダメだ」と否定される必要があるのではないかと思っていました。
それを突き詰めると「自分をさらけ出して誰かにダメ出ししてもらうには、きっと『演劇』しかないのだろう」と思ったのです。
どうしても演劇の道に行きたいと思い、中学2年生のとき願掛けのために地元・小浜にあるお寺『佛國寺』に一冬の間、自転車で座禅に通いました。
そうして親に内緒で桐朋学園の演劇科に応募しました。親は学校名だけ聞いて、音楽の道に進むと思っていたようです。
演劇で受賞経験のある人しか入れない難関校の受験で、演劇経験皆無の素人の私が合格できたのは、感銘した書物に「倫理社会の教科書」と書いたのがポイントだったと入学後に聞きました。
当時の新劇・演劇界は思想と絡んでいたというのもあるでしょうね。
実技試験では、国体で100メートル走に出場する選手の大会前の緊張と、弟が亡くなったときの母のショックを演じたのを覚えています。
そして新劇の道に入ったのですが、そこでまた「二番にはなれるけど、一番にはなれない自分」というエゴと出会ってしまい、再び逃げました。
逃げの裏返しとして受けたオーディションが学園ドラマ『翔んだライバル』。
レギュラーメンバーとして受かりました。
新劇のほうでは、水上勉さんの舞台で俳優座の役者さんなどに方言指導させていただいたりしたにもかかわらず、テレビ業界に入ることで逃げてしまった。
このエゴこそ、『5RHYTHMS※』でおこなっていることだったのです(笑)。

—なぜ「演劇」を選ばれたのですか?

雅代 インスピレーションです。音楽やバレエは演劇という表現の一部とも言えますよね。とにかく器用貧乏だと感じていて、それらを統合するのは演劇しかない!と思ったのです。

—中学生でそれを思いつくのは、とてもめずらしいと思うのですが……。

雅代 変わり者だったのでしょうね。幼少期に弟という身近な家族の死を体験したことも大きく影響していると思います。
そのときの母のショックは鮮明に覚えています。私は悲しみと同時に、周囲の意識がすべて弟に行くなかで、どうすれば自分のことをかまってもらえるのか、
ちょっとした演技をして大人の気を引いた記憶があります。
また、根本的にスター欲求みたいなものがあったのだろうと思います。
当時、ドラマオーディションなんて小浜にはありませんし、いろいろ調べて桐朋学園が一番いいと思いました。

※振り付けのないダンスをツールとした瞑想効果のある自己解放のためのエクササイズ。本文中は5リズムと記述。

左半身不随からのリハビリそこにはたくさんの発見が

—『翔んだライバル』に出た後は、どういう活動をされましたか?

雅代 シノザキシステムという演技訓練法を構築した篠﨑光正さんが演出するミュージカルに出ていました。
テレビと舞台を行き来していた24歳のときに、夜のヒットスタジオのボーカル&ダンスユニットのオーディションを受けて合格しました。
そうして芸能界で台風のように生きてきて、でも鳴かず飛ばすで。
1990年ごろ、とある放送局のCGの会社の受付の仕事に誘われ、芸の肥やしになるかと行ってみました(笑)。
いわゆる日本を代表する大手企業ばかりが出資した会社で、東京大学や京都大学などの優秀な人たちがCG制作をしていました。
理系の人たちに触れ、これまで芸能業界を知っている私は、業界の人たちの感覚的な言葉を、理系の人たちにわかるようにディレクションするプロデューサーのような業務をしました。
その仕事が面白くて!

家に帰る時間も着替える時間もないほど忙しく24時間×週7日働いているうちに、無理がたたって1998年に倒れてしまいました。
原因は脳出血。脳の運動神経野を損傷し、左半身付随になってしまったのです。
当時の精神状態はかなり波があり、テレビで女子高生が「親がブランドのバッグを買ってくれない!」などと嘆くのを聞いても、
「私の今の願いは自力で排尿することなのに!」と涙が出てきます。
幸い当時の夫が鍼灸師で五行や経絡などの知識があったのと、CG制作に携わっていたおかげで生理学的な知識を少し持っていました。
手足の指と脳がつながっていることは知っていたので、見舞いにきてくれる人に手足を揉んでもらい、それこそCGで作っていた神経伝達の様子をイメージしながら
「つながれ!つながれ!」と、
右の脳から左肩を通って指先へと神経がつながることを、毎日イメージし続けました。
イメージするだけでもかなりの体力を使うので、少し眠ってはまたイメージするのを繰り返していると、5日目に指先に反応があったのです!

なぜか私には治るのだということがわかりました。
元の神経がつながることは決してないらしく、新しい神経が発現していったのです。

—自分で新しい回路を作ったということですか!

雅代 そうです。少し回路ができてくるとそこからは早かったです。すぐにリハビリセンターに行くことになりました。内側からイメージしていくこと、外側からしっかり体を動かすということ、どちらも大切だということを体得しました。それが今のダンスの考えのベースにあります。
リハビリセンターでは、毎朝着替えます。食事は病室に運んでもらうのではなく食堂まで自分で行って食べ、洗濯もすべて自分でしなければなりませんでした。
なぜなら日常生活に戻るための訓練をするところだという認識だからです。
私は「自分は世の中で最もポジティブで好奇心のある患者」だと自負して自信満々でリハビリセンターに行きましたが、そこで首から下がすべてまったく動かない人が、
割り箸を口に加えてボタンを押している姿を見て「負けた!」と思いましたね(笑)。
そして、そういう人を助けてはいけないのです。

—はい。機会を奪ってはいけない。

雅代 そう、「人のプロセスは手伝ってはいけない」と身をもって感じましたし、5リズムの考えとしても納得していることです。
リハビリセンターでは、いろいろな人からさまざまな話を聞きました。
マグロ漁船の船長だった人が、インド洋沖を航海中に、突然、難病のギラン・バレー症候群を発症して動けなくなり、ナイジェリアで降ろされて、
四肢を縛られたまま小さな窓から「あの飛行機は日本へ行くのかな」と思いながら見ていた話などを聞くわけです。
マグロ漁船は、一度船を泊めると何千万という損失になるので、よほどのことがないと泊めてもらえないそうです。
私には話せるエピソードなんて何もない!と思うほど、ドラマよりもすごい話を、毎晩のようにたくさん聞いているうちに、最初のくだらないエゴが少し取れていきました。
自分だけが特別ドラマチックなのではなく、みんなそれぞれ劇的なすごい人生を歩んでいるんだ!と思えたのです。
左半身不随になったことは、私にとって本当にいい体験だったと思っています。
テーマからずれてしまうかもしれませんが、私にとってこの体験は「挑戦」ではなく、すべてが面白い発見でした。

症状よりも好奇心に焦点杖をついたままロスに移住

—ものすごく大きな障壁だと思うのですが、「挑戦」というより「好奇心」に引っ張られてきたということでしょうか?

雅代 そうです。人から見ると大変なことかもしれませんが、私には好奇心のほうが勝ってしまう(笑)。
みんなの話を書き記そうとパソコンに向かうようになり、指を動かすことがリハビリにもなりました。
「どうせパソコンするならブラインドタッチできるようになろう」「どうせ歩くならモデルみたいに歩けるように、姿勢を改革しよう」と。
治そうとは思っていなかったんでしょうね。
「症状」そのものに向き合うのではなく、別の好奇心に焦点を当てるのが、挑戦を挑戦ではなくするためのコツなのかもしれません。
あの体験は、私の宝物です。リハビリをしながら車椅子生活を半年間送ったあと、1999年、ようやく杖を使って立てるようになったときに、当時の夫と離婚しました。
同時期に会社も辞めることになり、退職金を持って、杖をついたままロサンゼルスのハリウッドに移住しようと決意しました。

—なぜアメリカだったのですか?

雅代 CGのメッカだからです。コンベンションで何度かハリウッドに行ったときに、車椅子の男性が階段が上がれなくて困っていたら、周囲のみんなが集まってサポートする姿を何度も見かけました。
髪を染めた少年たちもみんな自然にサポートするので印象に残っていたのです。
日本人の知り合いが、先にデジタル・ドメインとソニー・ピクチャーズで働いていたので、それを頼りに行きました。
ただ、そういう大きな会社のプロデューサーは英語ができないとダメだと言われ、小さい会社を探していたら、現在の夫のいる会社にめぐりあいました。
彼も離婚したばかりでした。アパートメント(マンション)の3階には小さなCGの個人事業主たちがたくさんいて、みんなで業務をシェアしながら映画『タイタニック』のCGを作っていました。
夫は、そのプログラムのチーフで、週に一度、みんなの食事を作ってくれるなら、オフィスの片隅で寝てもいいと言ってくれたのです。
チャーハンとサラダなどでしたが、みんなすごく喜んでくれました。
オフィスで飼っていた犬を散歩させたり、ネイティブアメリカンの居住区域にハイキングしたりしているうちに元気になりました。
その犬は私の体調が悪いとゆっくり歩いてくれ、調子がいいと走ろうと促してくれました。
すごく楽しかったです。二年が経ち、ビザの都合で帰国しようとしたら夫がプロポーズしてくれて結婚しました。
ヨガにも行き始め身体を治した2009年、エサレン研究所※で演劇・音楽・ヨガがわかる日本人で、英語が話せる通訳を探していると聞きました。
当時、アメリカで新型インフルエンザが流行し、日本では渡米を控える勧告が出ていたので、通訳が来られなくなったのです。
そこに代打で通訳に入ったのが、5リズムとの出会いでした。
マイクを持って話し始めたとたんに、なぜか涙が出てきて止まらなくなりました。
桐朋学園のときに逃げたエゴが、この5リズムにあることも瞬間にわかりました。
過去に踊っていたのに、今は思うように動けないことなどの感情も入り混じっていたのだと思います。(続く)

※アメリカのリトリート施設で哲学・心理学・ボディワークなどオルタナティブな人間性教育に取り組むコミュニティ。

- 特集 - 2018年12月発刊 vol.135

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