看護師の田中とも江さんは、30年以上も前から身体拘束(抑制)の伴わない看護・介護を実践されています。前号(10月号)では、田中さんが看護師を志してから、東京の高齢者向け病院で働くまでを綴りました。病院の患者を軽んじる対応に憤りをおぼえ、ついに怒りを爆発させた田中さん。しかし組織で孤立を深めるなかで、たどり着いた境地があります。田中さんの新たな歩みを見ていきましょう。
看護師
田中 とも江(たなか ともえ)
東京都品川区の「社会福祉法人こうほうえん ケアホーム西大井こうほうえん 」施設長。日本ユマニチュード学会認定エグゼクティブインストラクター。愛知県の准看護学校を卒業後、東京での病院勤務を経て、30代で「東京高尾看護専門学校」へ。1984年から東京日野市の「上川病院」(現「医療法人社団 充会 多摩平の森の病院」)に勤務。総婦長を務めた1986年ごろより、「縛らない看護」を標榜して、1998年「抑制廃止福岡宣言」や、1999年「九州宣言」につながる大きなうねりに。趣味は仕事、たまに買い物。
「いい看護師になりたい」
専門学校の入学願書に込めた思い
――前号(10月号)のお話の続きです。精神病院の内科病棟で看護師として働いていた田中さんは、病院の姿勢(患者を人間扱いしない)に憤りをおぼえたことをきっかけに、看護専門学校への進学を決意されます。
田中 当時、私がもっていた資格は准看護師免許でした。看護師免許との大きな違いは、それが国家資格ではないことと、医師や看護師の指示がないと業務をおこなえないことが挙げられます。主任など、人の上に立つ仕事をしたいのであれば、おのずと看護師免許は必要になってきます。
私は20代で職場結婚をしました。夫も准看護師だったので、将来のキャリアアップを考えて、私より先に仕事と両立しながら、看護専門学校に通っていました。卒業までには、3年を要します。もともと彼が卒業したら、今度は自分が進学する番と決めていました。
そして32歳の春に、東京高尾看護専門学校へ進学します。病院の仕事を手伝わされていた精神病棟の患者さんが、寸胴鍋をひっくり返して大けがをさせられたのは、ちょうどこの直前の出来事です。「病院の現場がおかしい」と上司に直訴しても、「生意気だ!」と反感を買うし、同僚の看護師からは無視される。だったら仕事を辞めて看護の勉強に集中しようかと思ったのですが、患者さんと接していると楽しい、自分も安心するから、やはり働きながら学校に通うことにしました。職場で孤立はしていたものの、13年間勤務していたので、理事長も私が学校へ行くことを許してくれました。授業に出るために休んでも、シフトが入っていたぶんの賃金は支給してくれました。当時は老人病院(介護医療院)の建設ラッシュで、どこも人手が足りなかったのです。
看護専門学校の入学願書には、志望理由の欄があります。「いい看護師になりたい」と、私は迷わずに書きました。「いい看護師になるために、これから勉強するんだ」と心に強く決めたからです。
暴れる、徘徊するという理由で患者さんをベッドに縛りつけること、どうせ行き場がないからという理由で長期入院患者に手伝いをさせること。人を人とも思わない振る舞いが、どれだけ病院でおこなわれていたことでしょう。
私が病院で働き始めたのが20歳前。月の半分が夜勤という生活を送っていたために、多摩の山中にあるこの病院が、日常を過ごす場所でした。外の世界を知らなかったから、病院が抱える矛盾に気づけなかったのです。
そういえば当時、都心の大学病院から、週に一回、精神科の医師が私たちの病院に診察に来ていました。いかにもエリートという雰囲気の先生で、いつもワイシャツにシワひとつ入っていなかったことを今でも覚えています。
「君たちは、モルモットみたいだね」。同僚と結婚することを報告した私に、先生がそう言いました。そのときは言葉の意味がよくわからなかったけれど、きっと私たちが、狭いケージ(かご)のなかで生きているように見えたのでしょう。
しかし職場結婚をして、人を愛する、子どもを生み育てることの喜びを知ったことは、私にとって、かえがえのない経験でした。家族を思う気持ちがあるからこそ、もしこの病院にわが子を預けることになったら、と不安に思わずにいられませんでした。せめて私と夫だけでも、いい看護師でありたい。そう思って、3年間、学校に通いました。
医師からの「君は正しい」の言葉。
本気で改革する気持ちが湧いた
――看護専門学校での勉強は、現場での仕事に活かされましたか?
田中 学んだことすべてが、実際に自分が関わっている患者さんと関係があるので、学びがいがありました。一方で、勉強すればするほど、自分が勤める病院への不信感も募ります。
たとえば患者さんが亡くなっても、カンファレンスで原因を究明する姿勢がない。患者さんの病状に関して「なぜこうなったのですか?」と質問しても、医師は「わからない」と口をつぐむだけです。採血の結果からでも、患者さんのいろんなデータが拾えると学校で知ったのに、なぜうちの病院の先生は、この方法を駆使しないのか。病院側の探究心のなさに、義憤が募っていきます。
学校も残り半年になった、1983(昭和58)年の11月、私は理事長に直談判します。「この病院を改革しなければ」という、使命感に燃えたからです。幸い、理事長が女性だったので、話しやすかった。私の提案に対して、理事長も「そうですね」と同調の連続だったので、手応えをありました。「今度、会議で話し合います」との約束も取り付けました。
しかし翌年3月、私が看護専門学校を卒業しても、なんの音沙汰もありません。「あの約束は、どうなりました?」と理事長に聞いても返事はない。ある日、上司に呼ばれて、「田中は看護専門学校を卒業したから、その資格を盾にして、主任になりたいのか?」と言われました。「お前、最近、調子にのっているな」との批判も向けられたのです。
おそらく、理事長への直談判の内容が、上司の耳に入ったのでしょう。しかし、私は主任になりたいのではなく、ただ患者さんを救いたいだけでした。
もう、この病院にいても、なんの発展もない。私はついに退職を決意します。
――15年以上も勤めた病院をやめて、どこに活躍の場を求めたのですか?
田中 上川病院(現・医療法人社団 充会 多摩平の森の病院)に新設されたばかりの内科病棟です。前の病院を5月に辞めて、すぐ働き始めました。私が入ったときは、患者さんが3人しかいませんでした。今度の病院も八王子市内から離れた、山中にありました。
――たとえば街中の病院という選択肢もあったと思うのですが、なぜふたたび、山の中の精神病院を選んだのでしょうか?
田中 前にいた病院で解決できなかった問題を乗り越えたい、との思いが強かったのだと思います。高齢の入院患者さんの理想の看護、介護を追求してみたかったのです。
働き始めるやいなや、私は経営者である副院長に、以前勤めていた病院で感じた矛盾、そして解決案をぶちまけました。決して人間の尊厳を踏みにじることなく患者さんと接するべきであること、そのためには人らしさを奪う最たる手段、身体拘束を絶対にやめるべきであることなどを熱く語りました。
――副院長は、どんな反応でしたか?
田中 「君は正しい」と、きっぱり言い切ってくださいました。今まで医師から「お前がおかしい」と言われ続けてきたので、思わず拍子抜けしてしまいました。
けれども私、すっかりその気になってしまったんです。この病院を、患者さんと働く人にとって、どこよりも心地いい場所にしようと心に決めました。
――理想の看護、介護のために、どんなことに重きをおいたのでしょう?
田中 まずは人です。当時の精神科併設の内科病棟というのは、退院が見込めない患者さんが閉じ込められている場所であることから、看護師にも緊張感がありません。詰所でお茶を飲んで世間話をしているだけで、仕事をする気がない人が多かったと思います。
「先輩、きちんと先輩らしい仕事をしてください」。私は上川病院に入ったばかりで、主任でも婦長でもありませんでしたが、仕事をしようとしない人には、口うるさく注意をしました。病院を本気で改革しようと思っているのだから、どれだけ嫌われようが、そんなことは問題ではないのです。
抑制をやめることで訪れる安心感。
患者も看護師も心穏やかになれる
当時は他の病院が、しきりに求人を出していたので、仕事が楽なほうにと考える看護師は、よそに転職していきます。結果、内科病棟には、きちんと仕事をする看護師が揃い始めました。育児をしながら働く人のために、病院が24時間保育士を雇い、また駅からの送迎バスもルートを増やしたため、山中の病院といえども、人材が集まるようになりました。
また私が上川病院で働くようになってから、1年半で抑制がなくなりました。けれども私が安心できるまでは、行ったり来たりの連続でした。もちろん、看護師に対しては、病院の方針で抑制禁止を徹底していました。
都から補助金が出ることから、当時は患者さんの家族が、みずから介護する代わりに、家政婦さんを雇う場合が多かった。家政婦さんの仕事は、それはもう丁寧で、患者さんの身体を拭かせたら、ピカピカに仕上げてくれます。
けれども、おそらく派遣元が「そのほうが介護しやすい」と教えているのでしょう、患者さんを抑制してしまう人が多かった。抑制する家政婦さんを見つけるたびに指導を繰り返すと、一旦は病棟から抑制がなくなるのですが、しばらく経つと、またどこかで抑制する人が出てくる。最終的には紐の付いた寝巻だけではなく、あらゆる紐、包帯まで捨ててしまいました。ようやく抑制の廃止にこぎ着けたのです。
看護師の大切な仕事は、患者さんの〝生きる〟を支援することです。患者さんにとって病室での毎日は、くらしそのもの、医療的な延命ではなく、日々を少しでも楽しく、心おだやかに過ごせるように。そのために必要なのは、いつなんどきも、人間らしく尊厳が保たれていることなのです。毎日、ときには手伝ってもらいながら、自分の手で温かなごはんを食べ、自分で排泄する。これをさせないで患者さんにおむつをつけ、寝たきりにさせていては、逆効果なのです。
上川病院の病室のテーブルには、必ず花を飾りました。壁には絵を飾り、窓にはレースのカーテンを掛けました。掃除も頻繁におこなうから、窓ガラスもピカピカです。晴れていれば、部屋にやわらかな木漏れ日が差します。
きれいにしておくと、やはり患者さんの気持ちが落ち着きます。患者さんは安心すると、不思議と暴れたり徘徊したりしなくなるものなのです。
そして患者さんが安らぐと、看護師も働きやすくなる。病棟のみんなが、心を落ち着けて過ごせるようになるのです。私はもう30年以上も、抑制のない看護・介護を実践していますが、問題は起きていません。患者さんの家族とチームになって、一体感をもっていろいろな工夫をすれば、抑制する必要はなくなるのです(12月号に続く)。