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特集

インタビュー取材しました。

防災を語ることで、福島の未来を紡ごう
福島県 相馬市教育委員会 防災教育専門員 高橋 誠氏 インタビュー 前編

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東日本大震災から10年を迎え、あなたはどう感じていますか? 「10年の数字だけを見て、一区切りしてはいけない」。プレマが福島の支援を続けるなかで出会った、防災教育専門員の高橋誠さんは言います。「未来のために防災を語ろう」。高橋さんの言葉が示唆するように、今年2月、ふたたび福島と宮城をマグニチュード7・1の地震が襲います。私たちは震災の過去と現実に、どう向き合うべきか、高橋さんと考えます。

福島県 相馬市教育委員会 防災教育専門員
高橋 誠(たかはし まこと)

福島県相馬市教育委員会学校教育課指導主事、防災教育専門員、防災士。 福島県相馬郡飯舘村生まれ。新潟大学教育学部卒業後、福島県教職員として、県内の小学校で教鞭を執る。元・相馬市立飯豊小学校校長。定年退職後より、現職。相馬市内の小・中学校の防災教育充実のため、各学校の避難訓練を視察、指導、また防災学習に関わる授業を実践するかたわら、防災教育の講演や日本赤十字社の防災教材プログラムの指導なども担当する。

潮風も感じられるこの場所は、
あの日の朝も、平穏だった

――高橋さんの現在のお仕事について教えてください。

高橋 相馬市教育委員会の防災教育専門員として、市内の小・中学校の防災教育を担当しています。学校現場に赴いて、避難訓練の指導、防災学習の講話をおこなう仕事です。これは東日本大震災の経験をもとに、2017年から始まった相馬市独自の取り組みで、生徒たちにとっては緊急時の避難方法のみならず、命の尊さを学ぶ場にもなっています。

地方自治体の教育委員会で、学校現場専門の防災士を抱えているのは、おそらく相馬市だけ。それくらい、防災の教育に力を入れています。私は福島県の教職員として約40年間働き、60歳で定年退職したあとに、この防災教育専門員になりました。

――高橋さんが防災教育に関わるようになったきっかけを教えてください。

高橋 やはり3・11、東日本大震災での経験です。もう二度と、あのような災害で命が失われてはならない。学校の現場で防災教育に力を入れていくなかで、防災士の資格も取得しました。

あの日、あのとき。2011年3月11日、地震が発生した14時47分に、私は相馬海浜自然の家にいました。福島県が所有する公共施設で、よく小・中学校の課外授業で生徒が訪れていました。一般の方の利用も可能です。当時の私は、一旦、学校の現場から離れて、この施設に出向していました。

相馬市の地図を見ていただくとわかりますが、市街地と海岸の間に、松川浦という潟湖(湾が砂州によって外海から隔てられ、湖沼化した地形)があって、相馬海浜自然の家は、その砂州の上、つまり松川浦と太平洋の間に位置しています。極めて海に近い立地でした。

それでもあの日、潮風も感じられるこの場所は、朝から平穏そのものでした。午後、昼食を終えられた老人クラブの方たちを送り出した直後に、大きな揺れがやってきた、と記憶しています。

前日にピカピカに清掃した重さ120kgの水槽が、玄関から建物内に、ダーっと、すごい勢いで滑ってきて、部屋のロッカーが倒れました。揺れが一旦、落ち着いたところで、職員それぞれ、自分の車に乗って、高台にある小学校を目指して避難しました。私たちと同じように逃げる人たちで道路は大渋滞、徐行する車の窓からは、落ちた屋根瓦を片付ける高齢のご夫婦の姿が見えました。まだみんな、このあと訪れる未曾有の被害を想像できていなかったのかもしれません。

徒歩30分の場所にある磯部小学校に着いたのが、15時7分。校長の指示で、たまたま児童たちは、まだ下校していませんでした。そして15時57分に、相馬市に大津波が押し寄せます。高台から見下ろすと、民家や建物があった場所が、みるみる真っ黒な海に変わっていく。あの光景を目にしたときの衝撃は、いまでも忘れられません。

相馬海浜自然の家があった磯部地区約2000人の住民のうち、250人以上の方が津波の犠牲となってしまいました。また磯部小学校とは違って、地震の直後に生徒が下校してしまった学校では、帰宅の途中で命を落とした児童もいました。「かけがえのない命を救うためにも、未曾有の大災害を想定した避難訓練が必要だ」。日が経って、震災で掻き乱された気持ちの整理がつくなかで、私はそう確信しました。

震災から10年、生徒に寄り添い
癒されてきたのは私の方だった

――そのあと、すぐに防災教育の現場に関わるのでしょうか?

高橋 当時の私の職場、相馬海浜自然の家も大きな被害を受け、閉鎖になりました。水が引いたあと、津波の被害を受けた磯部地区には、相馬海浜自然の家と磯部公民館、その他の民間施設の建物しか残っていなかったんです。一般の住宅は、ほぼ消失してしまいました。いかに津波の被害が甚大だったかがわかります。

磯部地区に隣接する、海沿いの原釜地区でも多くの方が亡くなりました。津波は国道6号線まで迫りましたが、JRの駅、そして官庁街もある相馬の市街地までは到達しませんでした。ゆえに国道を挟んで、被害への認識にも温度差があります。これは福島県全体にもいえることで、「浜通り」だけを見ても、双葉郡では原発の被害、相馬市や南相馬市では津波の被害、福島市を擁する「中通り」、さらに「会津」では、また違った震災の問題を抱えています。

私は2011年の7月までは避難所支援の業務に当たり、8月1日から相馬市立飯豊小学校の校長として、ふたたび学校現場に戻りました。この小学校は、国道6号線よりは少し海側に位置していますが、震災後に一時、よその場所に避難していた児童も、1家庭を残して、ほぼ登校している状況でした。

震災直後の学校現場を困らせたのが、放射線量の問題です。「屋外での運動は、2時間まで」との、国の指導があったためです。のびのび育つ、遊ぶことが、子どもの使命であるはずなのに、それをさせてあげることができない。なにより多くの保護者の方々が、原発事故のあと、子どもを屋外で遊ばせることに抵抗と不安を覚えていました。

保護者の方々が憂慮していると、子どもたちも心配してしまいます。防災訓練よりも前に、まず子どもたちを元気にしなければならない、と私は思いました。それに私たち教員は、基本は児童としか接することができません。

東日本大震災以降、本当に多くの支援が、東北、そして福島に届けられました。飯豊小学校にも、さまざまな贈り物がありました。なかでも多くいただいたものが、本です。物語に触れることで、生徒たちの心は豊かになります。

また学校を訪問してくださる方もいました。生徒たちの前で、合唱や演奏を披露してくださったり、またライフセーバー・豊田勝義さん主宰の「チームS.O.S」の方がいらして、体育の授業を指導してくださいました。

そういった支援や交流を通じて、未曾有の震災で、一時は強張ってしまった生徒たちの心もほぐれていきます。自然と笑顔が浮かぶようになりました。そのニコニコ顔を見て、親御さんも元気を取り戻していきます。保護者の方々を勇気づけられるのは、生徒たち自身なのです。

くわえて私は、9月の運動会をなるべく例年に近いかたちで実施することに決めました。子どもたちが元気に校庭を走り回る姿を見て、保護者の方たちは、さらに元気になれると考えたからです。
「屋外での運動は、2時間まで」という指針を超えて、せめて4時間。午前中は競技に当て、ご家族でお昼を食べてから帰宅するスケジュールはどうだろう。この予定で進めることにしました。

まずは校庭を除染しました。しかし、それでも「2時間まで」の言葉が引っかかる保護者の方もいます。私は本を読んで勉強して、科学的見地から不安に思う親御さんたちを説得しました。

学校内の避難訓練だけで終わらないのが、高橋先生のポリシー。必ず校外への二次避難までおこなうのが必要だという

結局、予定どおりに、9月に運動会が開催できました。生徒たちはお昼を食べて、保護者の方たちと笑顔で帰っていきます。2011年の春、飯豊小学校では入学式がおこなえなかったため、とくに1年生には、学校でご家族と一緒に過ごす、いい思い出になったと思います。

6年後の2017年3月に、その1年生が卒業するとき、私も定年退職を迎えました。卒業式にて、サプライズで子どもたちから卒業証書をもらったんです。嬉しいと同時に、自分こそが生徒たちに救われていたと気づきました。震災からずっと、生徒たちに寄り添うことで、私の心も癒されてきたのでした。

子どもは福島、日本の未来。
それを守るのに必要な防災教育

――飯豊小学校でのエピソードから、教育者としての高橋さんの人柄が伝わってきます。先ほどのお話だと、定年退職のあと、防災教育専門員になられたのですよね?

高橋 教育委員会で、防災教育専門員として活動する土台は、飯豊小学校時代に育まれたんです。避難訓練にも、特別に力を入れていました。

自らの被災体験を思い起こして痛感したのが、普段できないことはできない、ということです。相馬海浜自然の家で東日本大震災を経験したとき、私が緊急避難について実践できたことといえば、「身の回りの物を持たない」くらいです。突然、押し寄せてきた強い揺れに動揺して、なにも考えることができなかった、といってもいい。「もっとこうすればよかった」の思いが強く、本当は生徒たちの前で、防災について語るのも恥ずかしいほどです。

相馬市内の防災教育の場に足を運ぶのが、高橋さんの仕事。避難訓練だけでなく、座学にも力を入れる

けれども飯豊小学校で、校長として生徒たちと触れるうち、このニコニコ顔、大人の心も溶かすキラキラの笑顔を守るために、行動を起こさねばならないと思いました。子どもは福島、そして日本の未来だから。それを守るには、やはり日頃の避難訓練、防災教育が大事です。

飯豊小学校では、ありとあらゆる場面で避難訓練をおこないました。一般の学校では授業中の実施が多いようですが、休み時間、掃除の時間、下校中、どんな時間にも避難ベルを鳴らしました。おそらく訓練を実施していないのは、給食の時間だけでしょう。

また避難訓練で大切なのは、一次避難と二次避難。ベルで校庭に出て点呼、そのあと、すぐ教室に戻っていては、もしものときの実行性に欠けるからです。
飯豊小学校では、一次避難で校庭に出たあと、600メートル離れた高台のお寺に向かいます。そこに至るまでの道は決して広くなく、また車も通行するため、この二次避難の実施を提案した際には、教職員に反対されました。震災の被害から逃れる前に、生徒たちが交通事故に巻き込まれてしまうと言うのです。

しかし、ひとたび地震が起これば、交通整備が行き届いた道を避難できません。その証拠に、3・11のとき、相馬市の道路は、車で溢れていました。地震の際に冷静に行動できるように、生徒たちは平時の車道を安全に逃れる方法を知らなければならないのです。私は教職員を説得して、訓練を遂行しました。

また集団下校時の避難訓練には、親御さんの協力が不可欠です。学校での避難訓練では、避難場所が決まっていますが、下校時は生徒によってバラバラです。あらかじめ避難場所を決めて共有し、被災時には、最終的に保護者と落ち合う必要があります。避難訓練は学校のみならず、親御さん、そして地域とも協力して進めるべきなんです。(4月号につづく)

- 特集 - 2021年3月発刊 vol.162

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